2008年02月24日 in 新宿ロフトプラスワン


「不正義の平和よりも希望の戦争を」報告



佐藤悟志(青狼会)



(初出:LOFT PROJECT発行 " Rooftop " 2008年4月号)
(掲載時に紙面の都合で割愛した中盤の映画評を戻した完全版)




 2008年02月24日、昼日中でも薄暗い歌舞伎町の地下の奥底で、「不正義の平和よりも希望の戦争を」などと題したアブない対談が行われた。かたや赤木智弘、「フリーターの希望は戦争にしかない!」と『論座』誌上で喝破して、巨大な波紋を巻き起こした新進気鋭の若手論客。かたや佐藤悟志、「不正義の平和よりも正義の戦争を!」と主張し、10年前から北朝鮮への人道軍事介入を扇動し続ける人権ファシスト。戦争による現状打破を目論む二人による、まさに「自由な討論空間」ロフトプラスワンならではの危険な対談が実現したのである。二人の縦横無尽な戦争派トークを聞かされた客席からは戦争反対の意見もガンガン飛び出し、会場はさながら見えない銃を撃ちまくる言葉の戦場と化した。佐藤が以下にその論争の経過を整理して報告する。

 赤木・佐藤の「戦争派総決起」な主張に対しては第一に「戦争になったら自分も死ぬんじゃないの」と言う、『論座』での左翼文化人の反論にもありがちだった素朴な反駁があった。だが赤木は「自分が戦争で死ぬのは運不運だからしょうがない。だが今のままなら自分たちは確実に追い込まれて殺されるんですよ」と全く動じない。自由と繁栄を当然のように謳歌してきた「団塊世代」と違い、さながら移民労働者のように日本社会に使い捨てられてきた就職氷河期世代、いわゆる「ロスト・ジェネレーション」である赤木にとって「死」は近い将来の現実であり、戦争さえなければ避けられるような他人事ではないのである。過激派テロ組織と10年以上対峙を続ける佐藤に至っては、もはやとっくに覚悟された問いでしかない。

 第二に提示された反論は「希望のない社会を作った元凶は資本家階級だ。東側陣営や国内の左翼勢力が一定の歯止めになっていたのに、それが崩壊してタガが外れたから格差社会になった。だから弁証法的に言えば資本主義打倒しかないのだ」と言う、左翼的で階級闘争史観な主張である。
 だが、そもそもそうした事実認識は本当に正しいのか?、戦争派は論駁する。赤木は派遣労働者の解禁がなされたのは社民党が自社さ政権に加わっていた時ではないか、国内の左翼は組合に所属する正社員の利害を代弁しているだけだと批判する。さらに佐藤に言わせれば、社会主義陣営こそがむしろ搾取と格差の元凶なのである。1982年に北朝鮮の強制収容所で生まれ、生まれた時から2005年に脱走するまで政治犯として扱われ、手の指を切断されたり母や兄を公開処刑されたりしてきた脱北者シン・ドンヒョクの証言は、現在の地球上でも類例を見ない「子ども政治犯」の存在と、それを生み出す「アウシュヴィッツ国家」の暴虐を明らかにしている。そんな「社会主義国」など、「歯止め」どころか悪の根源そのものではないか!。しかも、それを容認する「太陽政策」のもとで北朝鮮に創設された「開城工業団地」では労働者の月給は約60ドル程度と言われる。時給に換算すると数十円程度でしかない。それこそ組合も労働運動も存在しないから人件費の上昇もなく、手足がちょん切れてもすぐに入れ替え可能、抵抗する者は一家まとめて収容所送りだからセクハラもパワハラもやり放題な「公然奴隷市場」。こんなものが堂々と稼働し始めれば、全世界の労働環境がこれに合わせて低劣化して行くことは明らかだ。日本で最低賃金を上げさせたところで工場が移転して労働者は失業するだけになり、ワーキング・プアはますます低賃金を余儀なくされ果ては中国や北朝鮮並みの奴隷労働を強いられるようになる。現に中国の低賃金攻勢で日本の農業も製造業も壊滅的な打撃を受けている。「タガ」どころか日本の貧困と格差社会を促進し正当化する役割を果たしているのが「社会主義陣営」でありそれを擁護する日本の左翼勢力であることを、佐藤が詳細に報告する。10年前にロフトプラスワンでこのような暴露をすると、「共和国に対する誹謗中傷だ!」と激昂する「日本の左翼勢力」にステージ上で襲いかかられて集団リンチを加えられたものだが、2008年のプラスワンではさすがにそんなテロ襲撃は行われず、聴衆は衝撃の惨状を静かに受け止めている。
(地獄を生き延びたシン・ドンヒョクの体験の詳細はネット上、もしくは彼の手記『収容所に生まれた僕は愛を知らない』(申東赫/著、李洋秀/訳、ベストセラーズ/出版)で確認せよ。)

 第三に、それでも抵抗する「反戦勢力」は、「本当に戦争で状況が良くなるのか?。北朝鮮が解放されるのか?。確証も無しに戦争を煽るのは無責任じゃないか!」と戦争派を追及する。そして若干キレ気味に戦争派が反論する。赤木は「じゃあ他の人は今の自分たちの現状に対して責任を持ってくれているのか?。持ってないじゃないか!」と言い返し、佐藤も「そういう人は現に北朝鮮の現状に対して責任を取っているのか?。90年代の後半に300万人の朝鮮人が餓死させられたことに対して左翼は責任を取っているのか?」と問いかけ返す。「戦争だって痛いだけじゃない。戦後復興で生き残った者はいい目を見た。」「中世でもペストで人口が減ったぶん賃金が上がって生き残った人々はいい思いをした。」といった発言も飛び出し、むしろ会場では戦争への期待が高まって行く。

 第四に「反戦派」は、「60年前の日本だって北朝鮮と同じことをやってた。アメリカだって黒人差別があって奴隷売買があった。それなのに北朝鮮の批判をする資格があるのか」と、おなじみの「歴史的経緯」を持ち出してきて制動をかけようとする。しかし、では北朝鮮の現状は酷くないのか、と問われれば酷いと認めざるを得ない「反戦派」は、ではどうするのかと言われても「時間をかけるしかない」とか「歴史が止揚する」としか答えられない。「資本主義」に対しては「打倒だ」「革命だ」と威勢が良かった「反戦左翼」が、「左翼全体主義」や「社会主義独裁」に対しては突然及び腰になる有り様に、戦争派からはすかさず「単なる見物人じゃないか。それこそ無責任だ」(佐藤)、「かつて北朝鮮状態だった日本がアメリカに戦争で負けて民主主義になったのなら、北朝鮮もどっかが攻めてあげる必要があることになる」(赤木)と反撃がなされる。

 付言しておくならば、過去の日本と現在の北朝鮮は、一見方向性が同じでもその苛烈さは月とスッポンである。金正日独裁体制に比べれば、「天皇制ファシズム」なんぞ学芸会のお遊戯でしかない。ハッキリ言ってケタも格も違うのだ。疑う者は日本映画『母べえ』を見に行けばよい。公式サイトの解説によれば、治安維持法違反で検挙された父親を家族が懸命に支え、その家族を親戚や友人が優しく助ける物語が見られるそうだ。「物語の中で主に描かれる昭和15(1940)年から昭和16(1941)年は、日本が太平洋戦争へと歩みを進めていく不穏の時代。国際情勢の変化や不安定な政情の中、人々が先行きの見えない不安を抱えているという点で、現代とも重なる時代だといわれている。しかし、そこには、人と人の絆があった。ちゃぶ台を囲む家族の団欒は、信頼と愛情に満ちた空間であり、隣家に向かって開け放たれた風通しの良い縁側は、他人同士でも気軽に入り込み、助け合える交流の場でもあった。」(映画『母べえ』公式サイトより)。これの一体どこが北朝鮮と同じなのか?!。
 まず何よりも、父親が体制批判を口走って逮捕されているのに、家族が野放しであることなど北朝鮮ではあり得ない。家族の誰かが「政治犯」と見なされれば、老人だろうと子どもだろうと家族全員が強制収容所に叩き込まれるのが北朝鮮の現実である。しかもこの映画では妻が吉永小百合で娘が志田未来だという。こんな上玉の家族が無事で居られることなどさらにあり得ない。秘密警察やら強制収容所やらの高級幹部どもが舌なめずりをして待ちかまえ、盛大に歓迎会を開いてくれるはずだ。そして、精神に異常をきたすまで陵辱され尽くした後は、どこかの裏山に埋められてそれっきりになるのがお定まりのコースである。まさにシン・ドンヒョクの姪や叔母がそうした運命をたどったように。
 こうした現実がある以上、家族を支える親戚や友人なるものも北朝鮮には当然存在しない。秘密警察の監視の目が張り巡らされ、誰に密告されるかも分からない社会で、犯罪者の家に親切に顔を出すなどというのは自殺行為でしかない。カネや食料を目当てに犯罪をでっち上げられることすら珍しくない社会なのである。だから『母べえ』の如き麗しき光景は北朝鮮では見られない。「人と人の絆」だの「信頼と愛情に満ちた空間」などと言った代物は、かつては北朝鮮にも存在しただろうが、現在では、三百万人の餓死者の死体とともに地面の下である。むしろそうしたものを信じる善良な人々が真っ先に粛清され、他人を欺いたり食い物にしたりするのが得意な者ほど生き残り出世して行く「悪の定向進化」を国家規模で推進しているのが現在の北朝鮮社会なのである。金正日体制に比べれば、過去の日本の「天皇制ファシズム」など、まさに「地上の楽園」とすら呼ぶべきヌルい「ファシズム」でしかないことを、『母べえ』は一目瞭然に描き出してくれるはずだ。自分たちの苦労話ばかりを持ち回って北朝鮮人民の苦難を矮小化するのは、端的に差別排外主義として捉え返されるべきであろう。

 さて、このように戦争派と反対派の間で激烈な論争が交わされた「希望の戦争を」イベントであったが、議論が進行するにつれて戦争派内部の亀裂も徐々に明らかとなっていく。戦争派といっても赤木智弘は、「自分は就職氷河期を救いたいだけ。その方法論の一つとして戦争を提起しているだけ」と言い、「戦争の勝ち負けは関係ない。むしろ日本が負けた方が平等になりやすくていい」とまで断言する。北朝鮮との戦争も「それで若者に仕事が生まれるんだったらいい。戦争後に北朝鮮の暫定政府が年棒五百万で雇ってくれるのならいい」と、あくまで自分たち世代の就職と生活にこだわる赤木に対して、リアルシャア?ことウェルダン穂積は「赤木君、それはエゴだよ」と突っ込んだが、それは一定正しい。赤木の手法は佐藤的には「ロス・ジェネ・ナチズム」とでも呼び得るものである。既成の差別反対運動に反発し「普通の日本人男性」のステイタス化にこだわる赤木のスタンスにもそれは現れている。
 それに対して佐藤は、普遍的な正義や人権は民族など超越しているという立場であり、「地球市民皆平等みたいなことを言ったら赤木さんだって日本に生まれた段階で勝ち組。でも問題はあって死ぬしかない。そこで日本と言う枠組みを引いて考える赤木さんと引かない佐藤氏の間には対立軸がある」という鮭缶氏の指摘はさらに正しい。客席からの「日本人としてのアイデンティティにすがるより、地球市民として自分を考えて充足すればいいのでは?」という意見に対して、赤木は「カネがなければそんなの単なる妄想でしょう」と見事に一蹴したが、佐藤的には「日本人」というアイデンティティも、「地球市民」同様に人為的に設定された妄想の産物である。
 しかし「狂ったポストモダン野郎」と鮭缶氏に評される佐藤悟志は、まさにそうであるがゆえに、「ロス・ジェネ・ナチズム」であっても一概には否定しない。現在の北朝鮮人民の苦難が、まさに自国の繁栄しか頭になく、そのために不正義の平和を維持せんと策動する日米中ロ韓の政府や左翼や右翼や市民によって無視され黙殺されている時、その腐敗し堕落しきった平和を爆砕して朝鮮半島に戦争状態を作り出さんとする者は、その動機や手法がどうであろうと正義の味方であり朝鮮人民の救世主である。

 ただし、それはあくまでその「ナチズム」が、北朝鮮との戦争を指向する限りにおいての話である。松本哉だの全貧連だの、あるいは雨宮処凛だののように、日本人のささいな金欠や苦労話を特権的に持ち回って「貧乏は正義だ」などと騒ぎ回る裏返しの自民族優越主義=左翼ナチズムは、北朝鮮の抑圧を無視して既存の平和やら憲法やらを擁護する差別排外主義的な体質を改めない限り、金正日体制の護持に加担する犯罪的な役割をこれからも演じ続けるだろう。赤木智弘の「ロス・ジェネ・ナチズム」や外山恒一の「ファシズム風アナーキズム」がこうした代物と同じ反動的な役割を果たすのか、それとも結果として正義を為して人類史を前進させるのかはまさに、「戦争派」の旗を高く掲げ続けることが出来るかどうかにかかっている。



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