浜崎あゆみ 5th Album 『RAINBOW』 収録



Dolls






綺麗な花を咲かせましょう  
そしてあなたに捧げましょう 
綺麗な花を咲かせましょう  
そしてあなたに捧げましょう 

私はうたを歌いましょう   
あなたの側で歌いましょう  
私はうたを歌いましょう   
あなたの側で歌いましょう  


* * * * * * * * * *



2002年12月29日付朝日新聞より

お母さんの誕生日に…

曽我さん便箋読み上げ


 北朝鮮による拉致被害者の曽我ひとみさん(43)が28日、新潟県真野町役場で記者会見した=写真、代表撮影。この日は、今も行方不明の母ミヨシさん(当時46)の誕生日だった。母子二人は拉致されるまで一緒だった。曽我さんは「いつまでも待ちます」と長文をつづった便箋を取り出して読み上げた。
 会見では夫の母親に会うため訪米したい気持ちも明かした。25年ぶりの日本の正月は自宅で静かに過ごす予定だという。


どこかで私の声を聞いてくれるなら、一日も早く帰ってきてください


 今日は私のお母さんの71歳の誕生日です。私が日本に来る1週間前まで、四日町の私の家に元気で生きながら、私のことを待っているのだと思いきっていました。
 日本にはお父さんと妹だけが生きている。お母さんはどこにいるのか分からない。日本にもいないし、北朝鮮にもいないと知らされたとき、信じられなくて、ただただ、泣くばかりでした。
 佐渡に着くときも、もしかしてどこからか急に出てきて温かく私を抱きしめてくれるのではないかと、一人で思いながらいました。だけどお母さんはどこにもいませんでした。
 お父さんとふるさとの人に会え、24年ぶりに会えた喜びも大きかったけど、お母さんがいないという悲しさも大きく、本当に心は複雑でした。
 私とお母さんは一言でいって、お母さんと娘というよりは友だちみたいな仲でした。周りの友だちも「本当に仲いいね、うらやましいね」とよく言われました。お母さんは私と妹を本当に優しく愛してくれました。
 私が保育園に通っている冬のある日でした。雪がたくさん降って、吹雪で一人では絶対家に帰られないと思いながら、だれか迎えに来てくれるかなと心配しながら待っていたら、角巻(冬の防寒具)を着てお母さんが迎えに来てくれました。温かい角巻の中に入りながら家に帰る道で、毎日こんなに天気悪いといいなと思いました。
 私が通っていた真野小学校の合唱部が佐渡代表で新潟で開かれるコンクールに参加することになった時、一日中工場で仕事をして、夜、家に帰ってくると、ざるを作っていたお母さん。
 家の生活は苦しかったけれど、私に水色のワンピースをひとつ買ってくれて、それを着てうれしくて、はしゃぎながら新潟へ行った思い出もあります。
 これは、私とお母さん2人しか今まで知らない話です。小学校6年生のころだったと思います。
 友だちが学校で新しいセーターを着ているのを見せてくれました。本当にすてきでうらやましいと思いました。私も一つ新しいセーターがあったらいいなあと思いながらもお母さんに買ってくれとは言えませんでした。
 その時、頭に浮かんだのがたんすの中にあった少しのお金でした。そのお金をお母さんに言わずにこっそり持っていって新しいセーターを買ってしまいました。
 その日の夜、仕事から帰ってきたお母さんが新しいセーターを見せてくれというのでした。
 私はその時、知らないと思っていたのにびっくりしながらお金を黙って持っていったことで本当に怒られると思い、心配しました。だけどお母さんは一言も怒りませんでした。
 涙を流しながら、「母ちゃんが新しい服をこうてやれんもんだし、ひとみがセーターひとつこうてきたんだな」と言われたとき、大声で怒られるより、もっともっと本当にばかで悪いことをしたなと思い、私も泣きながら「ごめんね。これから絶対、こんなことしんし許してな」と心から謝りました。
 こんなお母さんでした。今日どこかで私の声を聞いていてくれるなら、一日も早く帰ってきてください。私はだれがなんと言おうとお母さんが死んだとは思いません。これを見ている皆様の中で、何か小さなことでも知っていることがありましたら、どうぞ教えてください。私はいつか母さんと会える日を心から願いながら、いつまでもいつまでも待っています。




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