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全国の同志、友人の皆さん。
『戦旗』六五三、六五四号における、空港公団幹部嘱託菅谷に使嗾された菅沢昌平のスパイ工作暴露と弾劾の闘いは、反対同盟の条件闘争化をもくろむ政府−運輸省、公団に対して大きな打撃を与えた。当初的には開き直って乗り切らんとした菅沢も、徹底抗戦派の追及によって、ついに十二月十五日、事務局長を辞任するにいたったのだ。
運輸省・公団は、この闘いによって菅沢を尖兵とした反対同盟切り崩し攻撃への大きな打撃を被り、九〇年度概成の展望を喪失してしまった。追いつめられた政府は、十二月十九日、異例の「政府声明」を発表して二期工事完成のため政府各機関の総力をあげ、(1)農民への切り崩しを全面化しつつ、(2)「過激派」については徹底した弾圧を集中することを意志統一しているのだ。いよいよ三里塚二期決戦は日帝の総力をあげた攻撃のなかで日本革命の根拠地を守り抜きながら日帝打倒へと進撃すべき位置性をあきらかにしつつある。
こうした権力にたいする巨大な打撃を強いる戦果は、昨年十一月弾圧以来、「第三の試練」下で「党の武装」をより一層高次化させることによりかちとられたものであり、権力に対する戦闘としての情報戦における飛躍的前進を刻印したことをわれわれは確認することができる。
同時にこの闘いは、八・二九横堀団結の砦への成田治安法適用という徹底抗戦派に対する権力の集中的弾圧とこれに呼応する菅沢派事務局、青年行動隊による七・二〇戦旗派排除決定、対話路線の推進といった困難をも打ち破って九〇年二期決戦の戦略的水路を切り拓く闘いとして大きな意義をもつものである。
この闘いをつうじ、われわれが勝ちとってきた地平、成果を確認するとともに、勝利をもたらした「情報戦」の革命的意義の対象化と菅沢問題の孕んでいる本質的問題について、以下みていくことにする。
政府・公団の反対同盟破壊策動に大打撃
菅沢昌平のスパイ活動摘発の意義は、第一に、運輸省、公団の二期工事、九〇年度概成の成否をかけた「対話」、農民切り崩し工作の根幹を摘発、暴露しきることをつうじて権力に痛打をあびせかけ、実体的打撃を強制したことである。
菅沢をつうじた反対同盟工作は、現時点で判明しているだけでも一九八六年夏、増田運輸審議官との会談、「江戸城無血開城」をひきあいにだして「話し合い」を示唆した九・一四集会基調問題以来、菅谷京二郎を担当者として形成されてきたものであり、新旧公団総裁秋富、松井が直接菅沢抱き込み工作のために会談、接待することをも含みながら形成されてきたものである。この工作は八八年夏以降本格化し、八九年に入っては六月芝山町長選、七月戦旗派排除、八月成田治安法適用をつうじて反対同盟内に「対話」路線を浸透させ、一方で徹底抗戦を貫く農民を取り込むためにこれを支える支援党派としての戦旗派を排除、分断しつつ、十二・一六事業認定二十年をメルクマールとして、公然たる政府との話し合い→三里塚闘争の幕引が画策されていったのである。まさしくアメとムチを使いわけながら九〇年度概成に突き進もうとしていたのが運輸省、公団の攻撃であった。
こうした敵の目論見をずたずたに打ち破る闘いとして菅沢のスパイ工作摘発、暴露の闘いは貫徹されたのであり、菅沢の辞任による菅谷・菅沢ルートの壊滅という重大な打撃を敵に与えたのである。
政府・公団は、菅谷−菅沢ラインでの画策により七・二〇決定を反対同盟に行わせ、これで徹底抗戦派としての戦旗派を排除して熱田派切り崩し、抱き込み工作を公然と本格化出来ると祝杯をあげたといわれているが、この公団に対する断固たる反撃戦としてゲリラ・パルチザン戦闘に匹敵する、ないしはそれと同様の質を有する闘いとして今回の情報戦は戦取されたのだ。
日帝にあたえた打撃は公団だけではない。公団菅谷のみならず、現職警官である成東署警備課長今満博にも雇われるような形でスパイ活動に従事していた事実は、もはやどのような言い訳、開き直りも通用しないほどに白日の下にあきらかにされたのだ。
更に千葉県企画部高橋四郎、野村敏雄との秘密会合もあわせて、三里塚空港建設を押し進める権力機関の総てにわたって、菅沢昌平は関係を取り結びながらスパイとして反対運動破壊のための工作をおこなってきたのだ。菅沢をうしなうのは公団だけでない。関係機関すべて、とりわけ最大の情報提供者をうしなった成東署の打撃ははかりしれないものである。このような権力の衝撃とろうばいの大きさは、菅沢弾劾と解任の声が反対同盟内にたかまるのをみて、露骨な菅沢留任の働き掛けを公団や今満が反対同盟に行っていることにも示されている。公団用地課と成東署今満は恥知らずにも熱田一氏に電話をかけ、「菅沢さんはいい人だから辞めさせないでほしい」などとぬけぬけと懇願しているのである。
語るにおちるとはこのことだ。権力自ら菅沢はスパイであることを認めながらスパイ活動を続けさせてほしいと語っているのだ。いったいどこの世界に、スパイ活動がばれてその責任問題が論議されているさなかに、雇い主自らがあからさまにその擁護をしてくるということがあろうか。
この事実をみても、菅沢が公団にも成東署にとっても余人では変えることのできない役割を果たしていたことが明らかであり、政府・公団、千葉県警成東署の被った打撃の大きさが知れようというものだ。
菅沢スパイ問題暴露の闘いの意義として、第二に確認すべき点は、スパイ工作をも孕みながらの政府・公団による反対同盟農民切り崩し攻撃に呼応する形で押し進められてきた菅沢派事務局、青年行動隊の「対話」路線の表面化、三里塚闘争の幕引き−条件闘争化を暴き出す闘いとして貫徹したことである。このことによって七・二〇反対同盟総会、戦旗派排除決定の政治的性格が全人民の前に一点の曇りもなくあきらかになったのだ。
七・二〇決定で表出した問題とは、一部支援諸派の諸君が言うように、戦旗派の「セクト主義」、作風や農民の主体性の問題にすりかえられる問題ではない。スパイをも生み出すにいたった菅沢派反対同盟の変質−条件闘争化の問題であり、邪魔になる徹底抗戦派としての戦旗・共産同を排除するという事務局、青年行動隊の路線のありかたの問題である。したがって七・二〇決定にたいしてどのような政治的立場を選択するのかということは、三里塚闘争をめぐる路線的分岐を前にして、用地内農民をはじめとした徹底抗戦派農民を支えぬきながら闘争的原点を守り、二期決戦必勝陣形を全国全人民と共につくりあげていくのか、それとも対話−条件派化に付き従いながら日帝国家権力に屈服、投降するのかという、革命的左翼にとって死活がかかった選択としてあったのである。
われわれはこうした認識の上に立ち、スパイ菅沢と事務局により、目的意識的に仕組まれた徹底抗戦派の排除と、それをつうじての反対同盟丸ごとの条件闘争化の目論見にたいして、これをうち破り、七・二〇決定−成田治安法適用の攻撃をも切り返し、二期決戦の闘争陣形を作り上げていく闘いとして菅沢のスパイ活動暴露の闘いをたたかいぬいたのだ。
第三の意義は、八・二九横堀団結の砦への成田治安法適用という革命的左翼封じ込め攻撃をうち破り、二期阻止人民戦争の大爆発、全人民決起を実現する主導性を培う戦闘として今回の闘いを実現し、「第三の試練」下での党の武装の前進と現在的地平をしめしぬいたことである。
今回の闘いは、武器をもって直接機動隊と渡り合う実力闘争や、ゲリラ・パルチザン戦闘という形式ではなく、「情報戦」という特殊な形態の闘いであった。
われわれは、二期決戦を人民戦争を発動して闘うことを全党全軍が意志統一し、この戦争を担い抜ける主体的準備を自分達に課しながら党の武装の高次化を闘いとってきたが、まさに今回の闘いは、その地平のうえにかちとられたといっても過言ではない。いうまでもなく二期決戦において発動される人民戦争とは、決して固定化された闘いかた、例えば大衆的実力闘争だけをさすのではなく、さまざまな戦闘形態をも内包するものである。そこで問題となるのは、この闘いを担う主体、即ちわれわれ自身の抗戦意志の問題であり、この間わが戦旗・共産同が押し進めてきた「党の武装」の高次化を主体化、内在化しきっているかの問題である。
われわれはかかる観点にたち、「情報戦」も二期阻止人民戦争の一環であり、ゲリラ・パルチザン戦闘や大衆的実力闘争と同様の位置をもつ闘いとして位置付け、権力への実体的打撃を強制する軍事戦闘として実現しきったのである。そこでの軍事とは、直接的な情報収集活動や、ターゲットの動向の掌握の活動といった展開局面に限定されていくものではもちろんない。そこで得た情報をいかにわれわれが有効に活用するのか、反対同盟内の徹底抗戦派農民の決起を作りだし、全国全人民の二期決戦への政治的動員と組織化をはかっていくための手段としていく、またそうした過程すべてを、一個の人民戦争における軍事の実現、主体化として推進していく、すぐれて階級的な闘いであることがおさえられねばならない。
周知のとおり、われわれ戦旗・共産同は、本年春の過程で公安調査庁によるわが同盟へのスパイ工作の実態とこの工作にたずさわった公安調査官を摘発、暴露して粉砕するという闘いを実現してきた。今回の「情報戦」は、この経験にふまえながら、より困難な条件をひとつひとつ粘り強くクリアーしながら闘い、勝利したものである。われわれはこの闘いの成果を主体化することをつうじて二期阻止人民戦争のさらなる前進をかちとっていくのでなければならない。
情報戦におけるプロレタリア的規範とは何か
われわれは政府、運輸省・公団による農民切り崩し工作を阻止すべく、その実態を暴露し、現在的にはこの動きを頓挫せしめ、日帝・公団が「政府声明」までだして全体重をかけた攻撃にうってでなければ、九〇年度概成など絶対不可能なまでに追い込んだ。これに対して、一部の事務局員や支援諸党派はこの闘いの意義を矮小化し、情報収集の手段や菅沢個人の人格の問題にすりかえようとしている。かれらは、「闘う仲間である反対同盟員を調査するとはいい度胸だ」「菅沢さんはいい人だ。その人を辞めさせた戦旗派はゆるせない」「戦旗の暴露はカクマルと同じだ」などといっている。
だがこのような非難は本末転倒といわねばならない。菅沢問題は人民内部の矛盾などではなく、菅沢は目的意識的反革命である。公団、警察などの指示を受けながら、なかば職業的にスパイ活動をおこなっていたのであり、けっしてたまたま騙されて権力関係者と接触したなどという言い訳は通じないのである。菅沢が「闘う仲間」などでないことは、そうした非難をわれわれにあびせる当の人々がもっとも熟知していることではないか。菅沢問題とは、三里塚農民、全国の三里塚勢力にとり、絶対に妥協できない非和解的な問題であり、敵対矛盾以外のなにものでもないのである。
菅谷調査からうかびあがった菅沢
この点について可能な範囲で事実経過、及び戦争、軍事行動としての「情報戦」遂行上の階級的原則を明らかにすることにより、今なお菅沢を擁護するか、あるいはその逆に、菅沢個人に全責任をおしつけ、対話路線の温存を図ろうとする部分へのわれわれの回答としたい。
まずわれわれがなぜ農民切り崩し攻撃を粉砕する「情報戦」を発動するに至ったのかの経過である。われわれの調査活動の出発点は七・二〇決定である。この七・二〇事態は一部の支援諸派が言うような、戦旗派の作風問題に切り縮められていく問題では決してない。問題の本質は運輸省・公団のしかけている対話・切り崩し攻撃であり、これへの対処をめぐって、闘争の原点を守って話し合いを拒否するのかどうか、実力闘争を放棄するのかどうかという点にあるのだ。そもそも「作風問題」にしたところで、当初「町長選は同盟としてはとりくまない」といっておきながら、あとになって「同盟を批判した」と戦旗排除の口実にしたのは、菅沢ら事務局の方であった。
ともあれ、七・二〇決定により、内部に在って徹底抗戦派農民と結合しつつ、条件闘争化を阻止することが不可能となったわれわれは、外側から運輸省、公団の切り崩し工作ルートの解明と摘発、粉砕の闘いを開始したのである。
まず調査対象としてリストアップした対象のひとりが菅谷京二郎であった。当時の菅沢自身の弁明によって明らかなとおり、菅谷は一九八六年対話工作を高島之夫と共にプロモートした人間である。この時培った反対同盟との人脈に基づいて、現在もその活動を継続しているという情報をえていたわれわれは、まず菅谷に対する調査を開始したのである。
その結果、菅谷は空港公団の公式の名簿には掲載されておらず、また出勤も不定期不定時であるものの、公団工事局に出入りしている現職の公団幹部(公団工事局保安課嘱託)であること、反対同盟に対する切り崩し工作に今なお手を染めていることが推察されたのである。そこでわれわれは、菅谷の反対同盟工作を摘発すべく、菅谷の日常の行動をわが同盟の調査隊の監視下におき、ついに菅沢昌平との接触を探知するに至った。その接触たるや単なる会談や一時的な供応というものではなく、日常茶飯事的におこなわれていること、おどろくべきことには菅谷が空港工事局への出勤や退庁の途中で、通勤ルート上にある菅沢の家にひんぱんにたちよっていることが判明したのである。
これはまさに驚くべきことであった。それは単に「一時的にだまされて会った」とか菅沢個人のルーズさというには、あまりにも親しく近しい関係と思わざるをえなかったからである。
だが思い返してみると、菅沢が公団のスパイであるとすれば、小川嘉吉氏への土地買収工作や、熱田氏への公団用地貸付け斡旋工作など、「なんで反対同盟の事務局長が?」という、いくつもの疑問が氷解することもまた明白であった。
われわれは当初とまどいながらも、菅沢が公団や千葉県と接触しているとの情報を、相川氏などをつうじてえていた事ともあわせて、菅沢に対する調査とその活動のあらいなおしに踏みきったのである。すると、反対同盟の立場からはとても考えられないような言動や、菅谷以外の権力関係者との接触がうかびあがってきた。ここからわれわれは調査活動の主軸を菅谷から菅沢に移したのである。なぜなら、菅沢の周囲には複数の権力関係者の姿がみとめられること、事態を解明するためには、様々な反対同盟工作ルートの接点である可能性がきわめて高い菅沢昌平の動向を、全面的に掌握することがぜひとも必要であると判断する以外なかったからである。
その結果、菅沢がとんでもないスパイであることが明らかになったこと、及びその実態はすでに『戦旗』紙上で明らかにしたとおりである。もはやこの事実をあきらかにしないのは、徹底抗戦で闘っている農民と全国の三里塚勢力に対する裏切りでしかないとの決断を下して公表したのである。
以上の経過から明らかなように、われわれの情報活動は当初から農民を対象に設定されたものではない。あくまでも日帝国家権力との闘いを闘いぬく過程において、やむなく設定されたことは明らかであろう。菅沢が公団・菅谷とひんぱんに接触をくり返し、権力の意を受けて行動している事実をふまえ、菅沢に動かぬ証拠をつきつけるために、われわれは闘いの矛先を菅沢に向けたのである。
更につけ加えれば、われわれがこの情報戦をあえて戦ったのは、八三年三・八分裂にさいし当時の熱田派を選択したわが同盟の主体的責任において、反対同盟の条件闘争化を阻止し、二期決戦の全人民的爆発を領導していくために、この件は見過ごすことのできない事態であったからである。
以上、今回の情報戦はただ単に一般的な情報収集などではなく、その展開のうちに政府・公団との攻防を内包させた闘いであり、二期決戦の現下の最重要環をなす闘いとして位置付けられるものである。したがってその調査活動、情報戦はゲリラ・パルチザン戦と同様の、権力に対する軍事行動として位置付けられる性格を有した闘いに他ならない。すなわち、非合法・非公然領域を内包しつつ、総体として全人民的政治闘争としての三里塚闘争の戦略的前進を切り拓いていくものであった。菅沢−菅谷に対する情報戦もまた、ゲリラ・パルチザン戦などの軍事戦闘と同じく、わが同盟がこの間主体化してきた独自の戦争の論理と戦闘の諸原則にしたがって遂行されたのである。
ゲリラ戦としての情報戦とその規範
次に情報戦を軍事戦闘と同質の闘いとして貫徹するためにどのような規範と質がもとめられるかを明らかにしていこう。まず確認されるべきは点は、「戦略的武装論における武装の問題、武装闘争の保持の問題は、あくまでもプロレタリア革命、帝国主義ブルジョア支配の打倒を基本論理とする、権力に対する武装、権力のさしむけてくる民間反革命に対する武装の問題であり、権力=主敵、民間反革命=副敵の論理において構築されるものでなければならない」(戦略的武装論テーゼ)ということだ。即ち革命党の武装は基本的に人民内部の矛盾にむけられるものではなく、あくまでも敵権力にむけられていくもの、そして敵対矛盾にたいして発動されるものである。
更に軍事行動上の規範は、(1)明確な政治目的の下に闘う、(2)大衆みずから政治経験をつうじて学び、その中で革命的積極性を発揮できる方向をとる、(3)全人民的な政治暴露を通じて全人民の組織化を可能とするような闘いを実現するということである。
こうした規範、原則を菅沢のスパイ活動摘発の闘いにひきつけて整理するならば、つぎのようなものとしてまとめられる。
われわれがこの情報戦を闘った目的は、運輸省、公団の対話、切り崩し攻撃の実態を暴露しきることをつうじて、この策動に打撃をあたえ粉砕すること、そして反対同盟内の徹底抗戦派農民を軸として二期決戦の勝利的展望を切り拓くために、「農地死守」「実力闘争」「空港廃港」「話し合い拒否」という三里塚闘争の闘争的原点を守り抜くことであった。この政治目的のもとに、菅沢に対する情報戦は闘われたのである。菅沢が公団の秘密嘱託であり、反対同盟破壊工作に従事しているということは、人民内部の矛盾ではなく、敵対矛盾である。しかもスパイとして存在している菅沢を暴き出さない限り、空港廃港まで闘おうという意志をもった農民をもまきこんでの条件闘争化を阻止できない。この事実から目をそらし、バリケードのむこう側にいる菅沢に対する情報戦を、一部事務局員のように「無差別な情報戦」のごとく描き出し非難するのは本末転倒であり、菅沢と同じ穴のムジナか同調者のいずれかであると疑われてもしかたないであろう。
政治目的との関連で情報戦における規範を更に敷衍するならば、調査活動の過程で入手した情報すべてが公表の対象になるわけではないこともまた当然である。とりわけ個人のプライバシーの領域に属する情報は慎重な取り扱いが必要とされる。プライバシーを、のぞき趣味、興味本位で暴きたてるブルジョア週刊誌や、ゴシップ的な暴露を政治戦とすりかえるカクマル的な情報戦、暴露のありかたとはまったく異なる地平で、マルクス・レーニン主義的な規範、価値観を基準とした闘いかたを実践しなければ、情報戦の成果と結び付いた宣伝、煽動、暴露と人民の組織化など展望することはできないのだ。
菅沢昌平についても、闘争主体というには余りにも腐敗した姿をさらしているとはいえ、政治目的との関係で必要とされる範囲に暴露はとどめられるべきであり、興味本位やゴシップ趣味に堕してはならないのである。
以上のような戦闘原則にもとづき、わが同盟は菅谷−菅沢ルートを軸とする政府・公団の反対同盟破壊工作に対する情報戦を、一個の軍事戦闘として実現しきった。そこで公表した事実には何一つ粉飾はなく、しかも敵に打撃を与えるに足る範囲に厳しく限定したものである。われわれの目的は、政府・公団の三里塚闘争破壊を打ち砕くことであり、未だバリケードの向こう側に完全に移ったわけではない部分を打撃主義的に批判することではないからだ。情報戦といえども、それがプロレタリア解放戦争の一環としてある以上、そこには人間解放の思想、プロレタリア的規範が貫かれていくのでなければならない。これはわが戦旗・共産同の内的規範であり、革命運動のスターリン主義的歪曲を克服しマルクス・レーニン主義の戦闘的再生をめざす者にとり必然的命題であるのだ。
このような規範、基準にもとづき、菅谷−菅沢に対する情報戦は闘われることにより、敵である政府・公団に巨大なダメージを与えたことはすでに確認してきた通りである。
農地死守・実力闘争の旗幟を鮮明にし90年決戦へ
つぎに、菅沢問題発生の原因が菅沢個人の資質や性格に還元されるものではなく、結局のところ対話路線を克服しえず、八九年にはいってからは事務局によって「対話」が前面に押し出されてきたことに起因している点を見ておかなくてはならない。
すなわち、公団や県との金で汚れきった「パイプ」を有する菅沢を、事務局メンバーが「対話」路線の窓口にしたてあげようとした結果、菅沢による反対同盟工作も黙認されてきたということである。その意味では八三年三・八以来の、もっと言えば七九年島・柳川両氏の対政府交渉以来、隠然とではあるが、底流として反対同盟内に存在していた青行路線がうみだしたものが菅沢問題だといえるのだ。だからこそ事務局やこうした路線に深くかかわった一部の同盟員は、問題の所在をすりかえ菅沢を擁護しようとするのである。だが菅沢問題の本質がかかる点にある以上、菅沢を守りきれなくなって、菅沢個人のありかたに問題の所在をすりかえて事務局長をやめさせても一件落着とはならないことも明白であろう。何故なら権力は、自分達の目論見に合致する人間をみいだすためには労力も金もおしまないのであり、僅かのすきでも虎視眈々と自分達の手のうちにとりこもうとしてその機会をねらっている。思いおこせばわれわれに「菅沢の県、公団との接触をやめさせるからまかせてくれ」といっていた相川氏が、逆に菅谷、菅沢の抱き込み工作(「出荷計画」)にとりこまれ、町長選出馬のなかで空港との事実上の共存を公約にかかげるまでにいたったのであった。これらの事実をみるならば、路線を曖昧にしたまま小手先の技術でのりきることなどできないのはあきらかであろう。
菅沢問題克服の方向は、用地内農民を軸とした徹底抗戦派農民が先頭にたち戸村一作−大木よね精神で武装すること、闘争的原点を守り抜いて闘う路線を確立することにこそある。それはわれわれが再三再四にわたって主張しつづけてきたことであるが、今回の菅沢スパイ問題は、われわれの立場が誤っていなかったことを証明している。今後もわれわれは二期決戦の実力闘争としての爆発をつうじて反戦反核の砦三里塚を守りぬき日帝打倒へと進撃していかなくてはならない。
最後に、菅沢スパイ問題の公表という事態にたちいたってもなお、階級的責任をもって三里塚闘争にかかわろうとしない支援諸派の問題性についてふれておきたい。
菅沢問題に直面して、支援諸派のとった対応はどのようなものであったか。われわれの暴露によって菅沢のスパイ行為、犯罪性が満天下にあきらかになったことにあわてて彼らは菅沢を解任するよう反対同盟にたいして主張することはした。だがそれは、この問題をつうじて革命党派の前衛性を発揮し、階級的に反対同盟の再生をはかっていくといった方向や展望を有したものでは全くなかった。自分達の政治的延命のためにのみアリバイ的に主張したにすぎない。
その証左が『戦旗』紙上で菅沢のスパイ行為があきらかにされた直後に開かれた実行役員会での支援の対応である。この時点では菅沢本人も「ここで辞任したら認めることになるから辞任しない」などとリクルート議員顔負けの居座りをおこない、他方反対同盟も一部幹部を中心にして不問に付そうとしていた。こうしたなかで開かれた実行役員会は、なんと菅沢本人がなにくわぬ顔で司会をおこない、菅沢問題には一言もふれないという前代未聞の開き直りを見せたのである。それにとどまらず十二・一六集会で菅沢が基調的報告を読むということも何ら問題とされなかった。この会議に参加していた支援は、こんなデタラメな運営を前にして、一言も抗議の声をあげず、また菅沢を追及しないという信じられないような対応に終始したのであった。
こんなことでは、他党派が切り拓いた実力闘争、武装闘争の成果を簒奪して、あたかも自分達が闘ったかのような仮象をつくりながらヌエ的に延命しようとしていると言われても仕方ないであろう。菅沢問題によって七・二〇事態の本質が明白になっているにもかかわらず、今なおわが同盟の作風に問題があるかのごとくいいなし、われわれが菅沢スパイ問題、対話路線を批判し弾劾することに対して「自制」を要求するといった支援諸派の立場は結局のところ菅沢派事務局、法対部の話し合い路線を事実上容認し支えているという以外ない。こうした対応は話し合いを拒否してたたかっている小川源さん、熱田一氏を始めとした徹底抗戦派農民に対する裏切りに等しい。
ある意味では、このような支援勢力の「太鼓持ち」(成東署今満と菅沢の会話)的な対処こそが、菅沢のごときスパイの跳梁を許してきたともいえるのである。もとより三里塚闘争の主体は農地を守り闘いぬく農民であるが、そうした農民とスパイとを一緒くたにしか見られないような階級的観点の喪失、プロレタリア的規範からの背反は、決して見逃されてはならないのだ。
確かにわが同盟にしたところで、菅沢がスパイであると確信したのは、七・二〇決定後の全般的調査活動の後であって、その点まで支援諸派の責任を問うつもりはない。しかし、わが同盟は八六年九・一四基調問題以来、孤立を強いられながらも菅沢事務局の条件派的動きに対して闘いぬいてきたのだ。
こんにち、事務局、法対部は菅沢辞任をトカゲのシッポ切りとなすことにより対話路線を延命させ、「椎の木むら」など「空港との共存」に踏みきりつつある。一方、政府・公団は、それをみすえながら十二月十九日、異例の「政府声明」をもって「九〇年度二期概成」に突進しようとしている。こうした中で、三里塚二十四年の闘争的原点をいまこそ再生させ、二期阻止人民戦争へと進撃することが問われているのだ。用地内を守り、二期阻止・廃港をかちとるためにすべての人民は持てる力を結集し、闘いぬこうではないか。
(『戦旗』655号、90・1・1)