平壌は停電、農村はハゲ山
経済封鎖で生活が困窮
とても戦争どころじゃない
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拉致事件、核開発、テポドン、日本のメディアは連日のように北朝鮮の脅威を報道している。実際のところ北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)って、いったいどんな国なのか。今年9月、北朝鮮は6か月ぶりに日本人の入国を許可した。この機会に見ておこうと11月初旬、ブント有志が現地を訪れた。
【近くて遠い北朝鮮】
中国・瀋陽の朝鮮領事館に郵送で申請したビザも無事におり、いよいよ北朝鮮への出発の日がやってきた。早朝7時過ぎのフライトで羽田から関空に飛ぶ。関空で国際線に乗り換えてまずは中国へ。大連のトランジットで中国入国を済ませ、瀋陽へと向かう。瀋陽の高麗航空カウンターで北朝鮮ビザを受け取り中国を出国。ようやく平壌行きの旧ソ連製ツポレフTUー154に乗り込む。煩雑な出入国手続きを繰り返し、平壌に到着したのは午後5時過ぎだった。羽田から10時間、平壌は遠かった。
空港ビルの屋上に掲げられた大きな金日成の肖像。ついに北朝鮮にやってきたと実感する。入国検査を済ませ、税関でもたついていると、やや小太りの30・40歳代の男性が近づいてくる。黒のスーツに金日成バッジ。「日本の方ですね?」と話しかけてくる。一瞬ドキッとしたが、ガイドの一人尹(ユン)さんだった。
マイクロバスに乗り込むと、もう一人のガイド金(キム)さんがいた。カメラマンと運転手を含め4人が待っていたのだ。金さんの案内で平壌市街に向かう。「どんな質問でもしてください。写真も自由にとってかまいません」と金さん。エッ、自由に写真とっていいの? 一同拍子抜けした気分だ。金さんは「親切なガイドさん」である上に、朝鮮の政治・経済・歴史に非常に詳しい。観光ガイドの域をはるかにこえ、朝鮮現代史の講義を聴いているようだった。今回の朝鮮ツアーが実り多きものになったのは、ガイドの金さんに負うところが非常に大きい。金さん、本当にありがとう。
まず金さんは北朝鮮の現状について説明する。「朝鮮(北朝鮮の人々は自国を朝鮮ないし共和国と呼ぶ)は自然に恵まれていません。山岳地が多く農耕可能な土地は2割程度。冬の平均気温はマイナス8℃。雨の降り方にも偏りがあって、洪水と干ばつの繰り返し。農業にはとても苦労しています。ソ連が崩壊し、水産物等と石油のバーター貿易が途絶えた上に、93年からはアメリカによる経済制裁がはじまり電力不足が深刻化しました。水力発電で地域ごとの電力供給を行うことで、昨年暮れより電力供給は改善されました。今でも停電はありますが」。金さんは北朝鮮の経済的窮状を率直に語る。
「朝鮮は今、キムジャンの真っ最中です。白菜を満載したトラックが走っているでしょう」。車の外に目をやると、確かに何やら白いものを満載したダンプカーが猛スピードで走っていく。朝鮮ではこの時期、春までに食べる分のキムチをまとめて漬ける習慣がある。これをキムジャンと呼ぶ。労働者は3日間のキムジャン休暇をとって、職場ごとに平壌市から割り振られた共同農場に白菜の収穫に出かける。キムジャンでつけたキムチは、来春まで北朝鮮民衆のほぼ唯一の副食となるという。
「ここが中国大使館。ロシア大使館に次ぐ規模です」と金さん。「北朝鮮と国交のある国は中国・ロシア以外どこですか」と質問すると、「むしろ国交がない国をあげた方が簡単。アメリカと日本ぐらいですね。イラク戦争に参戦したイギリスとも国交はあります」との答え。北朝鮮に批判的な国も含めて国交ぐらいは結んでいるのだ。平壌市の中心部でも、車はほとんど走っていない。「車が少ないですね」と聞いてみる。「これでも最近は増えているんです。70年代後期までは、ほとんど車はありませんでした。酔っぱらい運転でも大丈夫なくらい」と金さんはジョークをとばす。北朝鮮では車は基本的に企業体や公的機関の所有で、個人が車を持つことはない。走っている車は日本車とベンツ(おそらく両方とも中古車)が多い。
【平壌は金日成テーマパーク】
2日目は平壌市内観光。まずは万景台の金日成の生家に向かう。昨夜は真っ暗でよく見えなかったが、マイクロバスで走る平壌市街は整然とした街並みが続き広告も屋台も皆無。見たところ掃除も行き届いている。日本や他のアジア諸国の街角で見かけるホームレスや失業者の姿はない。整然と秩序だっているとも言えるが、味気ない感じがする。人間の住む街というのは本来、もっと無秩序なものを孕んでいるものではないだろうか。
金日成生家では専属の女性ガイドが待っていた。彼女の説明を要約すると次ぎのようになる。1912年4月15日、金日成はこの家で生まれた。金日成一族はみな「革命戦士」で戦死した。4歳で字を書き、14歳でこの家を出て抗日パルチザンに合流。15歳でチュチェ思想の下に朝鮮独立運動を統一。1932年4月、20歳で朝鮮人民軍を創立し、1945年に朝鮮独立を達成して20年ぶりにこの生家に戻った。近代朝鮮史研究者や旧ソ連関係者から金日成神話と批判されている物語を、チマチョゴリの女性ガイドがとうとうと語りあげた。金日成生家は、藁葺き屋根・土壁・オンドルという朝鮮の伝統的な農家。女性ガイドの通訳の合間に金さんが「瓦屋根の家に住み、白米を食べ、肉汁をすする。この3つが朝鮮民衆の願い」と語る。「実現しましたか」とたずねると、「実現しつつあります」とぽつりと答えた。
「社会主義建設に邁進する金日成主席と朝鮮人民」の壁画で装飾された地下鉄ホームを見学。富興駅から栄光駅まで、金日成・金正日親子の写真以外広告一つない地下鉄に乗る。地下鉄の次は平壌の中心・万寿台の丘に向かう。ここには金日成の巨大な銅像を中心としたマンスデ大記念碑がある。金日成像27m台座5mを合計した高さ32mは金日成が朝鮮人民軍を創設した1932年に因んでる。銅像前の石畳を膝をついて洗っている人々を見ていると金さんが寄ってくる。「職場ごとに自主的に来た人たちです。平壌市民は、結婚式や何かの記念日にはここに来て、主席に花を捧げます。金日成主席は、日本人には独裁者と写っているかもしれませんが、朝鮮人民にとっては建国の父・植民地解放の父なのです。朝鮮人民は強い崇拝心をもっています」。
続いて170mのチュチェ思想塔。ここでもチマチョゴリの女性ガイドが登場。「烈々歓迎します」とあいさつし、チュチェ思想塔の頂上にある炎のモニュメントは「偉大なる金日成主席のチュチェ思想が不滅であることを象徴している」と胸を張る。チュチェ思想塔の石の段数合計70段は、金日成の生誕70年を記念している。エレベーターで塔の上の展望台に登り、平壌市内を見渡す。大同江をはさんで正面に金日成広場と人民大学習堂、その右に万寿台大記念碑と凱旋門……、まさに平壌は金日成と革命を記念するモニュメントで埋め尽くされている。金日成テーマパークというか、「聖地」と呼ぶのがふさわしい。社会主義というのは、こういうことだったのだろうか……。
昼食は平壌名物の冷麺。冷麺を食べながら拉致事件が話題になる。金さんは、「拉致はよくないことですが、そうしたことはどこの国でもあること。まず国交を結んだ上で、いろいろな問題を話し合えばいいじゃないですか」と言う。「どこの国でもあること」とは、戦前・戦中の朝鮮人強制連行をさしているのは明らかだった。ホテルで一休みした後、凱旋門と祖国解放戦争(朝鮮戦争)勝利記念塔を訪れた。
今日一日見て回った平壌の革命モニュメントも、高層アパート群も、80年代初頭までに建設された「ハコモノ」ばかり。新しい建設工事は一つも目にしなかった。北朝鮮の社会主義は、ソ連東欧などの社会主義諸国とのバーター貿易や友好援助が受けられた時代が全盛期だった。ソ連東欧社会主義国崩壊後は、衰退を続けている。そのことは、3日目の開城(ケソン)・板門店行きの過程でよりハッキリした。
【木はみな切ってしまった】
3日目は平壌を離れ、開城(ケソン)・板門店を目指す。平壌から開城まで約160キロ。マイクロバスは真っ直ぐなハイウェイを文字通り爆走する。1992年完成ということだが、すでに路面は相当傷んでいる。平壌市街を離れると道路のまわりは田園地帯となる。まず目につくのは、とにかく緑がないことだ。山や丘は赤茶けたハゲ山。街路樹も家のまわりの防風林もない。金さんが北朝鮮における農業生産の減少を語る。「80年代には米の収穫量はヘクタール当たり10トン、トウモロコシは12トンだったのに、今では米は5〜6トン、トウモロコシは6〜8トンしか収穫できない。肥料は不足し、トラクターも燃料不足で動かない」。
北朝鮮では56年から農業の集団化が進められ、約4000の共同農場がつくられた。人力と畜力による小規模農業は「封建的」と批判され、集団化と機械化、大量の化学肥料に依拠したソ連型の大規模農業が「近代的」として全国で押し進められた。だがこうしたソ連型大規模農業は、80年代に入ると過剰生産による地力の衰えで生産拡大が頭打ちになった。ソ連崩壊で援助が途絶え、93年からアメリカによる経済制裁がはじまると、北朝鮮の大規模農業は壊滅的打撃を受ける。
「93年からの4、5年間、私たち朝鮮人民は言葉にできないほどの苦難を経験しました。山の景色は年ごとに変わっていきました。はじめは中国から食糧を輸入するために山の木を伐採し、次には燃料にするために木を切りました。その結果、山は次々と禿げ山となっていった。私たちはこれからの世代に、とりかえしのつかない負の遺産を残してしまった」、金さんは沈痛な面もちで語り続ける。
大規模化と機械化・化学肥料の大量投入こそ農業の近代化といった発想の結果、北朝鮮の農村からは家畜がほとんど姿を消し、農地はやせ、山は禿げ山になってしまった。「近代化」以前の伝統的な小規模農業には、戻りたくとももう簡単には戻れない。
だがこうした北朝鮮農業にも変化の兆しが見え始めている。従来北朝鮮では、田植えと収穫期の年2回、10日から2週間、都市の労働者・学生に農村での無料奉仕が義務づけられていた。ところが2年前、無料奉仕から農民が俸給を払う制度に変わった。その結果、農民は勤労奉仕に頼らなくなり生産意欲が増大。増産に成功しつつあるという。またこれも2〜3年前から、共同農場に独立採算性が導入され、国家に納める量以上の余剰生産物については農民市場で自由に売買できるようになった。ちなみに平壌の農民市場は、闇市場から国営のマーケットへと生まれ変わり、近い将来、外国人ツーリストにも開放されるそうだ。
「中国式の改革開放経済の導入ですね」と質問すると金さんは、「改革開放ではありません」とキッパリと否定、「朝鮮の現実にそくした朝鮮独自の道です」と声を強める。改革開放ではない朝鮮独自の道、というのが現在の朝鮮労働党の公式見解のようだ。
【北側から訪れた板門店】
「ソウルまで70キロ」の標識をすぎ、軍事境界線の両側2キロに設定された非武装地帯の北側ゲートにつく。ここからの案内役は、北朝鮮軍の軍人さん。名前をたずねると「板門店代表部参謀の金少佐」と名乗る。「安心してください。あなた方の安全は私たちが守ります」、金少佐の護衛で板門店へと向かう。なんだか不思議な気分だ。246キロの軍事境界線をはさんで米軍・韓国軍と北朝鮮軍が今も停戦状態で対峙している。そう思うと緊張が走る。だが目の前の北朝鮮側の非武装地帯にはのどかな田園風景が広がっている。農作業をしている農民の姿もみえる。ここ非武装地帯は、のどかさと緊張が同居している。韓国側もこんな感じなのだろうか。
板門店会議場に着くと、停戦ラインの向こうにアメリカ人と思われる観光客と迷彩服の米兵が見える。停戦会議場に入ってみる。246キロの軍事境界線の中で、この会議場の中だけ停戦ラインを超えることができる。会議場の一番南まで行ってみる。ガラス窓のすぐ向こうには韓国軍の兵士が立っている。最前線を実感する。
続いて案内された停戦協定調印場で金少佐が語る。「共和国は、朝鮮戦争で世界制覇をもくろむアメリカの犠牲となった。われわれはアメリカとの平和的共存を望んでいる。朝鮮には『遠い親戚より近くの知人』という言葉がある。朝鮮と日本とは交易を続けてきた長い歴史がある。この間の一世紀、日本の軍国主義による植民地支配があり現在まで敵対関係が続いている。共和国は、日本政府の敵対政策に反対しているだけで、日本人民に敵対しているわけではない。日朝友好に向け、誤りを直すことが必要だ」。
平壌への帰路、朝鮮半島初の統一国家・高麗の首都・開城による。開城には、朝鮮戦争の戦禍を免れた数少ない伝統的な朝鮮の街並みが残っている。高麗博物館などの史跡をめぐった後、再び平壌へ。フリーウェイを爆走しながら今度は金さん、「先軍政治」を解説する。1994年、金日成が死亡。後を継承した金正日は、アメリカによる軍事的包囲に対抗するために「先軍政治」を提唱。経済力を軍事優先に振り向けるとともに、社会生活全体に「軍人精神」を横溢させることで難局を乗りきった。金正日はそれまで一部で見られた縁故やコネを廃し、実力主義・能力主義への転換を進めたという。また金正日は金日成と違い表舞台にあまり姿を見せず実務に専念。朝鮮民衆は、「主席のように将軍様のお姿をもっと目にし接したい」と思っているのだそうだ。
こうした金さんの説明から浮かび上がってくる金正日像は、「民衆と親しむ」=民衆から崇拝されることを好んだ金日成とは違う、実力主義で実務派の金正日ということになる。真偽のほどは分からないが、北朝鮮民衆が抱く金正日のイメージは、日本での報道とはずいぶん違うようだ。
北朝鮮の核開発問題についても討論になった。「電気がない生活を想像できますか。電気がないと水が出ない。水がないと炊事も洗濯もできない。お手洗いも流れない。エレベータも動かないから、毎朝、出社前に一日の水を自力で汲み上げなければならない。私も15階に住んでいますが、その苦労は並大抵のものではありません。1993年に合意した軽水型原発建設も原油50万トンの輸入もいっこうに進まない。われわれは独自の核開発を進めるしかないじゃないですか」。力説する金さん。
「でも原爆まで製造するのはいかがなものか」と反論するが、「アメリカは多量の核兵器で武装している。朝鮮にも自国を守るために核武装する権利がある」と金さんは動じない。「広島・長崎に原爆を落とされた日本人は、朝鮮の核武装に大きな脅威を感じている」と食い下がってみたが、「朝鮮は原爆がそれほど特殊な兵器だとは考えない」と一蹴されてしまった。
4日目、今日の午後、日本へと帰国する。午前中、朝鮮中央歴史博物館を訪れた。ここには朝鮮の史物・史料、約10万点が示されている。展示品の中には、日本の明日香村で発掘された高松塚古墳やキトラ遺跡の壁画とそっくりの壁画、法隆寺の仏像と瓜二つの仏像があった。こうした朝鮮の文化が日本に渡り、日本文化の源流の一つとなったのだ。何千年もの日本と朝鮮との関係の中で、人や物の交流が絶えたことはなかった。日本と朝鮮が敵対関係になったのは、「ほんのここ一世紀のこと」(板門店の金少佐)にすぎない。再び友好的にやっていくことはできるはずだ。
北朝鮮の脅威というが、社会主義経済が完全に瓦解した北朝鮮に、戦争する余力があるとはとても思えない(愛国者の金さんは否定するかもしれないが)。金正日政権にしても、体制護持に必死というのが本当のところだろう。朝鮮半島で戦争が勃発すれば、東アジア全体に大きな被害と取り返しのつかない禍根を残すことになる。戦争だけは絶対に回避しなければならない。「米軍の朝鮮攻撃に対して日本で反戦運動をやります」、「日朝国交の樹立に向けがんばりましょう」、最後に平壌空港でガイドの金さんと固く握手。日本への長い帰路についた。(レポーター 山根克也)
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