吉 村 一 郎
はじめに
1979年4月の岩木選挙敗北を機に、岩木英二氏と私吉村と当時東洋大生であったS君との三人で新たな市民運動の形成を目指して、その年の6月に創設した上福岡市民連合。岩木英二氏に対する想いは今もありますが、しかし現在の上福岡市民連合はブント(旧戦旗・共産同)の下部組織としての位置でしかなく、無責任な人間を送りこんではレーニン主義的「合意形成」ならぬスターリン主義的「多数決の論理」で「党決定」なるものをゴリ押しする形態に変質しその反省もないため私としてはこれ以上、上福岡市民連合に残ることは決して民衆の害にはなっても利益にはならないと判断し、脱退を決意いたしました。
以下の文章は、これまでの経過の中で私自身が何を問題にし、どのように提起してきたかを事実関係に即して書いたものであり、決して不満分子が突然だだをこねて飛び出したり、闘う仲間に打撃をあたえるために捏造した内部暴露のような代物ではありません。第一章 上福岡市民連合と戦旗派との共同の経緯
1.上福岡市民連合の発足
市民連合を発足して、6月10日には浦和市議の小沢遼子さんらを囲んで懇談会「80年代の市民運動をめぐって」を開催し意見交換をしたり、学習会を重ねて、10月7日「大義の春」映画集会を企画しました。これは実行委員会を形成して主要には「上福岡市民連合」と「水の・さとう君を守る会」(78年3月26日三里塚管制塔占拠戦士救援)の共同ということで、実質的な上福岡市民連合と戦旗派との共同歩調の第一歩でした。以降、「光州は告発する」上映会や「抵抗の大地」上映会を開催しつつ、三里塚現地に市民連合として足を運ぶ中で、82年「阻止連」(三里塚二期阻止連絡会議)の結成と岩木氏の阻止連代表への就任に連なって行きます。そして、83年市議選への岩木氏の立候補表明をもって具体的な選挙戦での戦旗派との共同がはじまりました。
2.83年市議選での問題点
選挙戦での具体的連携といっても、戦旗派メンバー多数が市民連合に加入したわけではなく(2〜3名程度)選挙戦を闘う母体である「岩木英二を支える会」を、支持者・市民連合メンバー・阻止連上福岡メンバー・戦旗派現闘団メンバー共同で構成したのです。また戦旗派自体の方針もなかなか出ずに4月14日告示でありながら4月5日付「戦旗」464号−「『反戦の岩木』氏を議会へ!上福岡市議選の勝利を!」だけでした。
その内容は、
(1)革命的議会主義の立場にたった議会への進出の足がかりとなるものを岩木選挙への主体的取組みを通じてつかみとる
(2)上福岡選挙を通じ反戦・三里塚闘争の正義性を広く人民大衆に訴え支持を克ち取る。
(3)反戦派の議会への進出を克ち取るとしてそのような断固たる闘い、緻密な選挙闘争を通じて獲得していく一票一票を単に一過性の選挙時だけのものとしてではなく恒常的な人民の結合体(市民連合・阻止連)へと組織し不抜の闘争拠点を上福岡に築きあげる。
つまり「人民の政治闘争への決起を克ち取ることを基軸とし、議会へ岩木氏を送り込むという課題を副軸とした関係性の中で」(5月5日付「戦旗」466号)方針が組み立てられていたのでした。
その「落選」への総括は、5月5日付「戦旗」466号−「岩木選挙闘争の意義と教訓」から見ると、
(1)反戦・三里塚派としての441票の意義。
(2)反戦・三里塚の宣伝戦の人民大衆への浸透。
(3)革命的議会主義の立場の前進。
(4)経験不足や組織的取り組みの遅れによる惜敗の教訓。
として、総体として、
(5)革命的議会主義にもとづく選挙闘争に於いても、当選という特殊個別課題を実現しつつ政治闘争への決起を実現するという方向の下で、
(6)なかでも総括しなければならないことは、岩木氏の当選を責任をもって実現しえなかったことである。党として岩木選挙に責任をもつとは大衆運動においてその闘いを領導し勝利を人民の手に打ち立てることと同じである。今回の敗北の根拠は技術的な問題もさることながら党のかかわりの遅れと絶対的な経験不足を把え返し今後の教訓としていかなければならない。
しかし、これでは何も語っていないのと同じで、やったことの確認と「左翼小児病」と「コミンテルン2回大会テーゼ」のまとめと、実現できなかったことの反省だけであり、そこから生まれるものは「惜敗」に対しての決意一般であり、政治組織としての運動組織的展望が「総括」から出てこない。
私自身その時問題にしたのは、83年4月の段階、日本階級闘争のとりわけ83年3月27日三里塚闘争をめぐる分裂・攻防の中での上福岡市議選の位置の総括でした。反戦三里塚を宣伝しつつも、中核派からの内ゲバ戦争宣言がなされ阻止連は「半公然」になり選対事務所も防衛要塞と化している中での選挙選をきちっと総括しきり、
(1)441票へ至る運動展開の総括とその打ち固めと発展への方策。
(2)訴えた人民大衆に対するこれからの運動展開政策。
(3)革命的議会主義の更なる深化・具体化。
(4)経験不足や組織的取り組みの遅れに対する総括。
こうした内容を提起しない限り「一過性の選挙時だけの」(「戦旗」464号)ものになってしまうと断片的ながら提起したのでした。つまり、戦旗派として革命的議会主義の内容的深化とその具体化、それへの運動組織的方針の遅れが83年3月27日三里塚闘争の分裂という局面の困難性の中で、明確化されていない点に現在の位置が規定されているのであり、また革命的議会主義についての戦旗派的深化と同時に、その上福岡的適用・具体化の方策が当選を特殊個別課題として設定しつつも全くない点に象徴的に現われているように83年以降の現実があるということです。3.87年選挙戦をめぐる論争点
83年選挙戦が終わるや、まさに「一過性」の如く戦旗派は立ち去り私の問題提起も宙に浮いた形でした。何故かといえば市民連合内の戦旗派指導的メンバーの移動の激しさです、ざっと数えても6人です。人が変わる度に話をしたのですがメンバー移動に関しての「引き継ぎ」がなされていないため、なかなか進展しないので85年にはいって文章−(レポート用紙13枚)と資料26枚を提出したのですが、それへの回答・討論はなく、定期購読している「戦旗」の配布が滞るようになり、まさに権力に対してではなく人民大衆に対しての「非公然」化が現実化し始めました。
そうこうしているうちにも、86年10月30日に選挙戦へ向けて「岩木英二を支持する会」が開催され一挙に問題が表出しました。予想を上回る人々の参加の中であたかも「この3年半の活動の成果」が具体的に現われたように見えた。しかし、それはそう「見えた」だけであった。結合関係の浅いN氏が遅れて入って来て、討論の流れとは無関係に「政治は国会議員、市会議員は身の回りの問題」と発言、それを合図に堰を切ったように支持者からも「成田なんか関係ない」「国家秘密法などでは当選できない」等の意見が飛び交い、焦った市民連合(戦旗メンバーY)が政治主張についての意義・重要性の発言をし、中をとりもつ形で支持する会の長老Kによる政治をより身近にかみくだいた方向での発言をもって「率直な意見交換」がなされました。その重大な事態の意味しているものを把え切れず無自覚なままで86年12月5日付「戦旗」550号−「公然−非公然の重層的展開と革命的議会主義について」なる、87年選挙方針・戦術が提出されたのでした。
87年1月にはいり、私は戦旗派にいくら問題提起をしても討論がなされない、ましてや改善の余地がないと判断して「吶喊」なる小冊子を発行・配布し問題点を公の場で討論することを決意しました。内容はこの文章での83年市議選での問題点や87年選挙戦への問題提起でした。
まず、否定的現実について、
(1)83年の反戦・反核の政治主張がそれ以降打ち固められずに現在に至っている。
(2)市民連合と支持者との関係が表面上はどうあれ内面的には悪化している。
(3)心情はどうあれ政治にたずさわる市会議員としては無節操で悪質な部分が存在している。
(4)そうした中で市民連合のジグザグ、安易な妥協が選挙戦をより不鮮明にしてしまっている。
として私は、
(1)については83年以降、支持者に対する緻密な系統的な連絡・通信網の不確立を問題にし、
(2)については単に「政治主張よりも身近な問題が大切」という意見そのものよりも、あまり関わりのないN氏が突然言わなければ「ホンネ」を言えないという関係に現在、市民連合(とりわけ戦旗メンバー)と支持者があるという構造的問題が非常に重大であること、
(3)については83年岩木・亀井の二股応援をやってのけた新座の太田市議問題、(83年当時反戦の岩木、反共の亀井の違いは歴然としていたし、亀井の機関紙「ばら」でも表明していた。ましてや選挙カーを運転いていた私が唖然としたことは、共産党候補者事務所前ばかりに車を行かせては、政策ではなく口ぎたなく反共宣伝を太田市議がしたことです)また、岩木を支持するなら何でもいいという曖昧性の問題点、
(4)そして、その安易さが「当選するならドブ板でも何でもやる」(市民連合戦旗メンバー)という無節操さには、系統的・計画的戦術などないと主張した。
また、戦旗派メンバーの入れ替わりに関しても、メンバーの移動自体が「地域拠点政策」の主要な問題ではなく、その変わり方そして長期的展望に立ったメンバー選抜の不在が問題なのだと提起しました。確かに地域社会において活動家が顔なじみになるということは非常に重要なことで、一般の主婦や老人が新聞等によって伝えられている「過激派」と直に接し、討論しそのメンバーを通じて革命党を理解していくことは第一歩だと思います。市民社会の中で人民大衆は、革命党の機関紙をあれこれ読みどの党派が正しいか決断するのではなく、革命党の内実を全人格をもって日常表現し、自分の目の前で忍耐強く話してくれる一活動家を通して、革命へ接近するのだと思います。したがって革命党は拠点化政策なりをとる場合、短期・中期・長期の方針の下に力量に応じてのメンバーを配置すべきなのです。83年選挙戦を共に闘ったメンバーがひとりもいなくなり、事務引き継ぎも完璧になされずに、見知らぬ人が訪ねてきてはまた変わってしまう状況では、大衆が革命党の呼びかけに応えて決起するでしょうか。
そして、戦旗派現闘団の若い活動家の諸君の問題点については、確かに労共闘活動家としては自己を動員しきるという意味においては「マジメ」ですが、大衆の中に入った時人民大衆に通じる言葉を使えず討論や活動の進行過程においても動揺とジグザクを隠せず、ある時は尊大に遅れた大衆に戦略的総路線を説き、またある時は迎合しズブズブの市民主義立場になってしまう現実は「一歩前進二歩後退」「何をなすべきか」「左翼小児病」のトータルな把握が活動家の内的発展としてなされていない「前衛ショウビニズム」と「ナロードニキ」とのジグザクではないかとも提起しました
しかし、この私としては意義のある提起だと思っていた「吶喊」での内容も戦旗派にとっては「内部問題が克明すぎてまずい」らしく(私としては市民連合の内部問題を主体的に、かつ戦旗派の外部から把えたのですが)問題解決への討論にはならず、別個の意志統一の場=会議形態を持つことが提起され、問題は棚上げ・先送りの形で時期的にも切迫する選挙戦に突入していったのでした。
確かに戦旗派は全力をかけて選挙戦をやりきり「勝利」した。5月15日付「戦旗」566号−「革命的議会主義にもとづく上福岡市議選勝利の地平」を見ると、
(1)本選挙を一個の政治闘争として日帝中曽根ファシストの戦争国家計画をうち破る全人民政治闘争として闘いぬいた。
(2)革命的議会主義の立場にたちきって闘いぬいた。
(3)党の計画性にもとづくねばり強い組織化そして市民連合をはじめとする闘う勢力との団結の下選挙戦をうちぬいた。
(4)選挙闘争の勝利は武装せる革命党・革命勢力の建設と戦略的武装の推進にうら打ちされ基礎づけられたものである。
勝てば官軍なんとでも言える。しかし、私の問題提起には一切答えていない、また勝利の美酒に酔いしれ716票という当選が振り返ることを困難にしてしまった。「市議会の選挙なるものはこんなもの、少数メンバーが市民連合に存在して運動をしていれば選挙戦で現闘団を組織して大量動員すれば勝利する」というまさに「陥穽」。
やはり、「一過性」の如く戦旗派は去り、上福岡は静寂を取り戻した。残ったものは、選挙戦過程で知り合った人々への「市民連合か阻止連上福岡への結集オルグか」をめぐる戦旗派内での醜いシンパ争奪戦であった。4.90年代戦略と上福岡市民連合の特殊性
89年は、まさにソ連・東欧の崩壊という事態と、7月20日三里塚反対同盟からの絶縁という中で今までの運動主体の転換がいやおうなしに迫られた。阻止連の解散−全国運動の結成は、阻止連上福岡部分の市民連合への「編入」をもたらし市民連合において戦旗は多数派を形成した。
そうした中で提出されたのが「90年代戦略」である。その内容は、
(1)スターリン主義の破産にもとづくプロレタリア革命運動の見直しに耐えうる内実をもった運動創出。
(2)政治闘争と経済闘争の単純な二者択一だけではブルジョア支配と対決しきることはできない。(反帝闘争の内実)
社会的な課題を反権力闘争に高め上げる新しい形態の政治闘争の創出。
(3)課題と条件に応じ、如何なる党派大衆団体との共闘も辞さない。
それは以下の歴史的現実に規定された、戦略というよりも「生き残り」戦術であった。
・スターリン主義の崩壊による社会主義に対する自然発生的共感の喪失。
・党派間共闘による全人民的政治闘争の構築の困難性。(労共闘・社学同という党派部隊展開からの転換)
そして、各地区◯◯労共闘は次々に名称を「◯◯市民の会」等に変更し、「90年代(生き残り)戦略」に進んで行ったが、構造的にも形態的にも「党派の反戦青年委員会」=「労共闘」が内容変更しないまま名称変更しただけで、市民運動に参入するという無理が当初からあり、「90年代戦略の物質化とは単なる合法大衆運動の拡大を自己目的化することではない」とか「市民のところにいって市民運動をやること一般が90年代の物質化なのでは断じてない」(92年1月1日付「戦旗」723号−「90年代人民総反攻をかちとれ!」)等あとで総括もされている。
しかし、問題は上福岡市民連合である。90年代戦略が提出される遥か昔から(歴史的には69年上福岡べ平連〜)市民運動を担ってきたのであって、そこに市民運動未経験の戦旗派活動家が編入され市民連合が再編されたことを見なければならない。あくまでも90年代戦略の下で市民連合が生まれたのではない。しかし、選挙戦を共に闘った顔なじみでもあり共同行動の蓄積の上にたった信頼関係もあったので、事務所はにぎわいを見せその時点では正直よかったと思った。まさか「軒を貸して母屋を取られる」とは思いもよらなかったし、「党派なんて信用できない」と言う人々には、自ら「最近の文章を見ても戦旗派はこれまでとちがう、共にやる価値がある」とまで言ってまわっていた。5.91年選挙戦で露呈したこと
私の問題提起を受け止めぬまま「陥穽」の中で「柳の下の二匹目のドジョウ」を狙った戦旗は同じパターンで選挙戦に臨み、最終票読みから1000票も下回る594票(前回716票)の最下位で辛くも当選した。しかし、私自身としてはこれでやっと戦旗も私の提起に耳を傾け考え直すだろう、鍼灸師だから言うのではないが、今回の最下位当選は「いいお灸」だと正直思った。
方針は、12月15日付「戦旗」688号−「90年代戦略の物質化かけ来春統一地方選の勝利を」で、
(1)治安弾圧の激化に抗し合法的活動領域の拡充−上福岡市議選。
(2)公然領域の重層化をかちとる−90年代戦略の物質化、左翼小児病−最大限の弾力性。
(3)全人民的政治闘争と結合した選挙闘争展開を上福岡の地で実現。
と、1月15日付「戦旗」690号−「上福岡を反戦・反派兵の砦に」で、
(1)署名運動−自衛隊海外派兵阻止と市議選闘争勝利の一個二重の闘い。
(2)公然領域を守り豊富化する闘い。
(3)90年代戦略の物質化。
(4)革命的議会主義の実践。
(5)拠点運動−限定された特定の空間に先行的にヘゲモニーを確立していく闘い。
と提起され、総括は5月5日付「戦旗」701号−「4月上福岡市議選勝利の意義と今後の課題」において、
(1)91年統一地方選挙は何よりも90年代戦略の物質化をかけた闘いであった。
(2)最下位当選という結果は選挙戦そのものの集票活動の不十分性の露呈としてもたらされたと同時に、われわれの上福岡における4年間の政治実践の帰結であり、地域拠点活動の不十分性を突き出すものととらえかえさるべきである。
(3)岩木氏の4年間の実績や市民連合運動の成果に寄りかかり、浮動票の自然発生的な獲得が可能であるかのような錯覚に陥り、政治主張の「正当性」を根拠として選挙を構想するという考え方の延長に「政治内容を正しく語る」ためには地元住民の動員よりもアジテーターを重視し、活動家による代行でヨシとする傾向を強めた。
(4)選挙指導部の街頭行動主義的な大衆運動指導部化が問題、われわれは大衆運動の現場指導部ではありえても選挙指導部たりえなかった。
(5)問題なのは、われわれが存在的に市民生活から遊離しており地に足がついておらず活動の基盤をもっていない、政治以前の存在にあることにこそある。
(6)地域の運動形成をめぐってはそれを市民の自立的自主的運動などとして拝跪する無批判的な関わりや、逆に一党独裁的なヘゲモニー形成を追求して共闘関係の形成を独断的セクト主義的に疎外していくその両方のあり方を批判し乗り越えていかなければならない。
私にとっては多少の相違点はあるものの、この総括は十分納得のいくものであった。「陥穽」に対しての無自覚さへの警鐘であり、やっと噛み合わなかった論争点が共通の認識として自覚され、市民連合内の「共同主観」の端緒が切り拡かれ、不十分性を克服するスタートラインが見えたと思った。だが、しかし・・・第二章 90年代戦略とは上福岡市民連合にとって何であったのか
1.女性候補者=「横山良子」をめぐる問題点
91年選挙戦総括をふまえ、住民から遊離した活動側面を克服するために、単に市民生活への埋没や利権への接近としてではなく活動領域をより広げるための努力を市民連合は試みた。そのひとつが市民連合戦旗メンバー女性横山の95年市議選を射程にいれた上野台団地への転居(岩木氏は霞ヶ丘団地)とPTA・生協・自治会等への参加であり、集会等での司会や、市民連合ニュースへの登場をしつつ、93年退職(半専従化)、日独平和フォーラム参加(訪独)と選挙体制を準備し積み重ねてきたことだった。明確な市民連合会議での決定ではないが、暗黙の了解というより市民連合の「内的合意」という形で進んでおり、決して戦旗派の強引な候補者擁立ではなかった。それは、91年選挙時に社会党から市民連合横山への出馬要請もあり、また市民連合自体も支持者を拡大して議員を増やす構想も持っており、エリアが線路を隔てた岩木氏と別の団地でもあり、女性候補ということで活動範囲・支持層も競合せずにいけるという判断があった。私自身の感じでは岩木氏も「合意」というより「納得」していたと思う。しかし、93年ドイツからの帰国以降、横山自身の活動が崩壊し召還していくのである。戦旗の会議にはたぶん出席していたのだと思うが、市民連合代表者会議や市民連合会議は欠席が多かった。その当時、市民連合内の戦旗と非戦旗の意見調整の場として、岩木氏と私と戦旗中心メンバーとで市民連合代表者会議を持っており、市民連合会議はメンバー全員参加の定例会という位置であった。
横山召還問題が市民連合にとって重大なのは、確かに横山の資質を十分把握せず候補者にし、指導なるものをやり切れなかった戦旗派自身の問題はありつつも、市民連合の仲間の問題を市民連合として取り組まず、私の提起に対して「今出すと混乱する」と不問にして、横山問題を戦旗派内部の問題として処理しようとしたことです。そして、また「横山は市民連合会議で立候補宣言した事実はない」などと言う言い逃れは、市民連合に横山問題など始めから存在していなかったというとんでもない暴言で、今まで市民連合は共に何をやってきたのか、戦旗派にとって市民連合は一体何であったのかを問わざるをえない。
振り返れば、多くの戦旗派のメンバーが突然市民連合に編入したり、他地区に移動して行った。複雑な気持ちはありつつも、彼等を暖かく迎え、また市民連合での活動を忘れずにガンバレと送り出してきた。いわばそうした私の「片思い」の想いは、しかしただ戦旗派の内部問題の調整・都合という事務処理への勝手なノスタルジーでしかなかった。特に、戦旗派離脱者には「党の論理」がまかり通った。確かに「党の論理」はあるだろうけど、また市民運動には「市民運動の論理」がある。戦旗派のメンバーであり市民連合のメンバーでもある人間が、戦旗派をやめようが市民連合のメンバーにはかわりわない。そういったありかたを許さない党の構造は、結局のところ昔からある市民運動団体を一個の独立した決定意志をもつ「パートナー」としては、見ていないということです。上福岡市民連合は、労共闘や社学同のような戦旗派の戦略部隊でもなければ、名称変更した戦旗派系の「◯◯市民の会」などという、下部組織でもありません。ましてや、上福岡市民連合が「アクセス」系勢力だということで「自他共に認める」と錯覚してしまったことと、動員数が減少しないできたことが、90年代戦略に見当違いな評価をあたえることに結果した。2.90年代戦略ステージ2へ至るおごり
見当違いの評価から出てきたものが、94年3月5日付「戦旗」797号−「90年代戦略ステージ2の課題」のような主張である。
「90年代戦略のステージ2における課題とは、こうした市民運動的形態による運動展開の定着と組織的力量の再建をふまえつつ、その過程で生じてきたサークル主義的傾向をただし、マルクス・ラジカル派としてのわれわれの内容を、市民社会にさらに伝播することにある。今やわれわれは、われわれ自身を『知的共同体』として発展させていくことを課題とするに到ったのである」
自らの生き残りのために参入した市民運動、そこには以前から「心の広い市民運動家」がおり、その懐で共に運動が発展してきたからこそ「80年代的水準への組織力の完全な復活を刻印」(94年1月1日付「戦旗」791号−年頭「民衆的オルタを」)が可能となったのであり、決して「イデオロギー的深化があったからこそ、90年代戦略の定着は可能となった」(同「戦旗」)のではない。そうした「俺が俺が」的解釈の発想が否定していたはずの「無謬の党」観の復活・正当化を結果するのであり、また「知的部分」が「遅れた大衆」を「指導する」なるどうしようもないひとりよがりの図式をも正当化するのです。そうした傾向が如実に現われた市民連合での具体例とは、(1)閉ざされた市民連合事務所について、
戦旗系の出版物の連絡先は、今はなき阻止連・MSAPや全国運動・アクセスどれをとってもどういうわけか上福岡市民連合であり、困ったことに都内で行われているビラまきや署名活動まで連絡先は上福岡市民連合です。そういった構造を作ってしまうと上福岡市民連合事務所において電話の応対のできる人は市民連合のメンバーではなく、戦旗派の中心メンバーにおのずと限定されてしまう。したがって戦旗派のメンバーによる会議(非公然?)も市民連合事務所で開催されることになり、市民連合のメンバーは「邪魔はしないように」との「心憎い配慮」から事務所へ足が向かなくなり「溜まり場」的な「市民に開かれた事務所」という性格は影を潜め、結果として非公然であるべき事柄が逆に公然となってしまうという「合法主義」を生みだす。たまたま会議中に事務所へ行くと「何しに来た」と、言わんばかりの視線に出くわし罪悪感にさいなまれてすごすご引き上げる、「何曜日の何時からは行くのはやめよう」になる。これは結局、知らなくていい人にまで「戦旗派は◯曜日の◯時から会議」を知らしていることで「合法主義」以外のなにものでもない。だが問題はそんな「合法主義」にあるのではなく、市民連合のメンバーが肩身のせまい想いをしているという現実が明かに関係性としておかしいということです。私などは約束した時間に行ったら事務所入口だけでなくビルの入口まで丁重にカギがかけられており、思わず「ここは上福岡戦旗社か!」と叫んでしまったこともありました。市民連合メンバーの入れない事務所は、市民連合事務所とはいわない。(2)内的発展を伴わない学習会について、
これは論議を呼んだ「新改憲」についての学習会。正確には「性格」は「市民連合学習会」ではなく「市民連合事務所でやる学習会」だったと思います。私も関心があったので色々と読み込み主体的に参加するためメモ・意見を持参して臨みました。それはこんなもの、・・・(省略)しかし、そこで言われたことは「吉村さんはそんなこと考えていたの」でした。学習会を「戦旗の読み合わせ」としか考えていない人、読んで理解するということを「暗記」と取り違えている人とは討論にはならないとその時つくづく思った。もっとも名称を「戦旗読み合わせ会」とか「論文丸暗記会」とかにしてくれれば、私も参加せずに無用な混乱もしなかったろうに。
(3)わがもの顔の編入者について、
戦旗派メンバーの他地区からの移動についての問題点は前章で述べたが、その最悪のケースは「戦旗」「理論戦線」誌上でも有名な「仁科優」(=末広)なる戦旗派国際連帯委員会(「戦旗」778号)メンバーのデタラメさです。本人が上福岡地区への移動希望ということを聞き、次章で明らかにする国際連帯運動での豊富化と思いきや、本人いわく「私は党の命令で来たのでいつ他の地区へ移動するかわからない。それも、来年かそれとも2.3年後か。したがって上福岡において地域に根差した活動に参加する気はないし、そもそも地域に根差した運動なるものをするつもりはない」そして、
「党の命令でイヤイヤ編入させられた」「上福岡はマッチョだ」「地域に根差した長期的活動などまちがい、現代世界は定住から移動の時代だ」等、なんのことはない言わせておけばいい気になって、理屈をこねても本心は「遅れた大衆や訳の解らぬ住民なんかを相手にするより、執筆活動の方がスマートで革命的だ」ということを言いたいにすぎない。また、上福岡で集会があった時も「道に迷って云々」(2時間も!)と遅刻の言い訳をしたがそれは「真っ赤なウソ」で友達と飲んだくれていたというのが事実。
問題なのは、何故そういった「クズ」が上福岡市民連合に編入するのか、党の問題だから戦旗派上福岡地区委員会へのメンバーの移行は勝手だが、上福岡市民連合への加入は位層が異なる。市民運動をやろうとする人々が自分の意志で参加し討論しながら決定するというのが市民連合運動であり、やる気のない人が来るところでは決してない。つまり、この時点において戦旗派にとって上福岡市民連合は「下部組織」として明確に位置付けられたと思うのです。3.95年市議選−岩木降ろしの策動
女性候補者横山の破産で戦旗派は窮地に追い込まれた。党の決定では「95年選挙戦は党内候補で闘う」という方針がまずあり(いつ頃決まったのかは知らないが)、しかしYがコケていない、党内候補者探しの毎日、そのうち党中央の方針が党内候補者一本で戦旗派上福岡地区の方針が保留となり、上福岡市民連合とは全く関係のないところで独断的に候補者問題が推移していく。
迎えた、93年12月4日西公民館において「市民連合忘年会」の席上、戦旗派Sによる立候補宣言と会議で意志統一してきた戦旗派メンバー一人一人によるS立候補支持の大合唱、そして戦旗指導部Mによる「これで市民連合レベルでの合意がとれた」なる発言。この時、私は「こんなのは今までの市民連合の合意形態ではない、強引な多数決の論理であり承服できない、市民連合を辞める」と論争になり、以降、戦旗派と岩木氏また戦旗派と私という構造で討論やら言い訳が進行し、「次々回を目指した後継者問題」だとか「岩木氏の健康問題」等が「ための論理」で、出ては消えていった。つまり何らの打開策のないまま「岩木引退、党内候補擁立」という党決定と非戦旗の間で戦旗派上福岡が板ばさみになってあの手この手で乗り切りを策したが結局だめだったということです。私は候補者問題を白紙に戻すことで市民連合運動における討論の継続と共同行動を確認して、一応脱退を取り下げた。
その結末は、意外や意外、半年後の6月上福岡市議会での議員定数削減条例の可決でした。戦旗派のKが「候補者は岩木に決まった」と言ってきた。市民連合の合意は昔から変わっていない、「誰が、いつ、どこで決めたのか」聞きたいものだ。岩木氏の言葉を借りれば「乗っ取り」以外のなにものでもない。戦旗派は今まで自らが否定し、克服しようと文章化して積み重ねてきたまさにその否定すべきものを、改めて(またしても)やりきったのでした。それを保証したのが悲しいかな「90年代戦略ステージ」なる自信過剰の天狗方針、何故悲しいかといえばこんなドンズマリの仕業を罪悪感なしに平気でできるところまで来てしまっているからです。
人間だれでも間違いはある、それを正義だと強引に言いくるめて反省を忘れたらおしまいです。特に「前衛党」を自称しているものがやってしまったら、私がいうのもなんだが、それを「スターリン主義」というのです。やはり「スタ克」だったのです。本来、「スターリン主義を克服せよ」という意味であれば「克スタ」なのに「スタ克」にしたため結局スターリン主義に克されてしまった。「帝国主義に反対」を「帝反」といわず「反帝」と言うが如し。
そうしたどうしようもないプロセスへの真摯な切開も反省もないまま「岩木選挙勝利」「革命的議会主義」ですか?誰が共にやるのでしょう。♪〜歌を忘れたカナリヤは後ろの山に捨てましょかイエイエそれはなりません。そんな歌があった。今まで私は ♪〜反省を忘れた前衛党は歴史のクズ箱に捨てましょかイエイエそれはなりません。と歌っていたのだと思う。第三章 国際連帯運動をめぐる決定的差異
1.戦旗派の中東パレスチナ問題への主張
ここ10年来の「戦旗」紙上の主張は、
・「パレスチナ人民と連帯して闘おう!−PLOベイルート撤退の意味するもの−」(82年9月5日付453号)
・「米帝=イスラエルによるパレスチナ人民大虐殺を弾劾する」根津哲也(82年10月20日付455号)
・「パレスチナ人民と連帯し、米帝レーガンの中東和平工作を打ち砕け!」鈴木太郎(82年12月5日付458号)
・「レバノン内戦の革命的地平をみすえ秋期総反撃の大勝利をかちとれ!」(83年10月5日付475号)
・「闘うパレスチナ・レバノン人民に連帯し、安保=日韓体制を打倒せよ!」早坂透 (84年2月5日付482号)
・「湾岸戦争の歴史的根源−帝国主義の中東支配」水谷遡(91年2月15日付693号)
・「反動フセインは敗けてもパレスチナは戦い続ける」高橋正夫(91年3月5日付695号)
・「米帝主導下の中東地域安保粉砕パレスチナ解放闘争と連帯せよ」高橋正夫(91年4月15日付699号)
・「米ソ結託による中東新秩序−PLO解体策動を許すな」(91年12月5日付721号)
内容的には、「情勢分析−闘うパレスチナ人民の存在−自国帝国主義打倒」という構造になっており、この10年間構造的主体的進展がないということもさることながら、まず結論(=自国帝国主義打倒)ありき、から文章を構築するという逆立ちした手法が見え見えなのである。それは以前の「79問題」的に「安易に人民に学ぶ」姿勢からの脱却として「前衛性の喪失」や「自然発生性への拝跪」を戒める点は理解できても、具体的な実践活動をしている者にとっては「すり寄って来たと思えば、上から講釈を垂れている」としか映らない。
最近では、92年12月20日「国際連帯集会」総括の「国際的オルタ潮流の形成を!」黒川みどり(93年3月15日付「戦旗」764号)や「NGOボランティアについて考える」尾崎明(93年6月15日付「戦旗」773号)などでは具体的な民衆同士の交流をしている部分に対して、「自国帝国主義打倒がない」とか「政治的中立が問題」などと批判しているが、私はこういうのを「木を見て森を見ない」というか「森をことさら見ないようにして」重箱の角をつついて、あたかも「木がすべてだと言いくるめる」まさにトリッキーな(トロッキーではない)「針小棒大」な論理だと思います。2.レバノン医療協力への関わり
91年、S氏を通じて赫旗派−戦旗派−上福岡を経由して私にレバノン医療協力の話が舞い込みました。そして、私はレバノンに飛び、本格的に国際連帯活動に入って行きました。(戦旗派の関西部分−MSAPは、大阪のパレスチナ連帯関係の人々にこともあろうか「うちのものがレバノンに行く」とふれ回っていたとか)
その報告は、「寄稿」という形で91年10月5日、15日、25日付の「戦旗」716号〜717号に掲載されました。(党派の機関紙という性格を配慮せず、写真等を本人との確認のないまま掲載したため関係者にご迷惑をかけた点もあり、以降はその反省の上に立って、だが可能な限り機会あるごとに報告を色々なメディアに追求)
そこで私は、現地において具体的な民衆同士の交流経験に立って「第三世界人民の姿をこの目で見た時、私は今ほど帝国主義足下の労働者階級人民の国際連帯の強化が問われているときはないと思いました。そのためにも国内における反戦・反侵略の闘い、自国帝国主義打倒をかかげた闘いを基盤としつつ、もっと具体的な内容と内実をもった実体的な連帯運動が不可欠になっていると思います。…民衆レベルの心をひとつにした支援・交流がこれからの連帯運動の重要なひとつになるのではないかと確信しています」と問題提起し、私なりの実践活動を以降進めてきました。
また、92年11月の「アクセス」7号、93年5月5日付「戦旗」769号にも投稿しましたが文章が勝手にカットされたので以降「戦旗」系への投稿はやめました。では、今明かになるカット部分の再現。
「そうした点を踏まえると、批判になるかもしれませんが感想としては『戦旗』761号(2月15日付)の『中東新秩序を阻む四百人』の記事は中東和平のプロセスや背景は書かれているのですが、私達が真に連帯すべき対象『闘うパレスチナ民衆』に肉薄しきれていないように見えます。今日ほど国際主義の内実とその真価(=深化)が問われている時代はないと思います。そういった意味でも戦旗・共産同の皆さんの更なるアプローチと発展を期待します」
カットしなければならなかった部分とはこれです。記事を見てもらえばわかりますが余白がありスペース的にカットしなければならない理由はありません。
92年8月にも戦旗派メンバー(MSAP)はレバノンを訪れ、12月国際連帯集会も開催しているにもかかわらず立場は常に「他人のフンドシで相撲をとる」基本線には変更がありませんでした。3.本格的連帯活動=レバノン派遣をめぐって
94年1月、ボランティア鍼灸師2名の募集をし、現地常駐体制に入りその中のひとりの鍼灸師が戦旗派のメンバーでした。2名の派遣団には私と戦旗派のメンバー1名も同行し、その時の報告は94年2月15日付「戦旗」795号「内戦の続くレバノンを訪れて」において「顔の見える連帯に向けて、…地を踏み締めるような地道な運動を続けていこう」と締めくくられていましたが、帰国後その人が戦旗派中央へどのような報告をし、討論したのか知りませんが、戦旗派中央の決定とやらを伝えにきた戦旗派上福岡責任者の「水沢」から出た言葉は「派遣者(戦旗メンバー)の早期帰国命令」でした。理由は「弾圧が厳しいので引き上げさせる、戦旗派としては以降レバノン連帯はやらない」とか、「正体見たり戦旗派さん」でした。党がその時の情勢なりから方針変更するのは勝手だが、今回のレバノン派遣プロジェクトは市民団体であるNGO「レバノンへの医療協力を進める会」が新聞・雑誌等で募集し、実現にこぎつけたものであり、その募集を受けて戦旗派は党プレゼン−地区調整−本人確認−党決定という手順を踏んで市民団体の主催するプロジェクトへ参加してきた。暮れの集会(12月19日)でも本人の決意表明と会場カンパ14万円が集められ、以降話題としては「次は◯◯地区の鍼灸師の誰それ、いやマッサージ師の誰だ」などと喜ばせておきながらの結末。
問題は、今回のように大衆運動として「レバノンへの医療協力を進める会」という市民団体が呼びかけた「レバノン派遣プロジェクト」に参加した人々や主催者と何らの討論もなく、派遣者の活動が実践される前に、党が大衆団体に対して「命令」する在り方は決して尋常ではないということです。戦旗派は最近「伝導ベルト論」をことさら否定していますが実際にやっていることは党−大衆団体の関係の「マリオネット論」です。
しかし、選挙戦での候補者問題と同じく上福岡地区ではそれでは通らないので苦肉の策として「戦旗派としては、やらないが上福岡地区は独自課題として取り組む」なる提起がなされた。しかし何のことはないそれは「他人のフンドシで相撲を取る」ということを言葉を変えて言っているにすぎない。
7月プロジェクトは終了し、派遣団が帰国した。派遣されていた戦旗派メンバーの書いた94年8月5日付「戦旗」812号−「レバノン医療ボランティアに参加して−針灸が育む草の根の連帯」を読んで、その内容に彼の「無念」さをつくづく感じた。反省している、私は派遣した人物は間違っていなかったが、パートナーを間違っていたと。
それ以来、彼は「党に隔離されて」しまったらしく、なかなか連絡がとれない。来るのは戦旗派東京地区の責任者と名乗る「カマタ」なる人物が「借金の取立屋」のような態度で帰国時の航空チケット代の請求…。結 論
これまで色々な人々との連携で運動を前進させようと、党派・団体・個人を問わず努力してきました。
その考えは今も少しも変わってはいませんし、これまで以上に多くの人々と結び合っていかなければならないと思っています。
しかし、ヤル気のない人達とはもうやらない。
混乱と苦労だけで前に進まないし、迷惑をかけてしまう。
前進のための(中核派の機関紙を言っているのではありません)苦労はこれからも大いに引き受けますので友人の皆様の率直な意見をお待ちしています。1994年11月8日
吉 村 一 郎
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