吉村一郎氏 略歴 |
---|
1951年、横浜市生まれ
1958年、父親の転勤で静岡県に転居。
1966年、中学3年の時、父親の転勤で埼玉県に転居。
1967年、東京板橋の私立城北高校に入学。
無銭旅行ヒッチハイクで沖縄に行き反戦に目覚める。
1969年、色々な集会に顔を出し、城北高校全共闘に参加。
全共闘がプロ軍だったため法政大に連れて行かれ、
ヤクザみたいな学生運動に失望し、地域運動を模索。
上福岡べ平連結成に参加。
1970年、上福岡で元旦デモ、6月反安保一週間連日デモを決行。
ブントシンパになるも分裂状態でどこがよいか悩む。
1971年、反帝戦線二回大会参加、高校時代の戦友と再会。
夏、戦旗派沖縄地方委員会に参加。
秋、戦旗派埼玉地区委員会に移行。
埼玉県富士見市役所に就職。
1972年、富士見市役所社研を建設。
埼玉狭山差別裁判糾弾共闘会議を建設。
埼玉労共闘を建設、議長になる。
分裂で日向派は名古屋と埼玉だけになる。
体調不良、胆石悪化で手術。
1975年、12月に戦旗派を離脱。
1978年、三里塚3・26管制塔占拠闘争。
救援組織「水の・さとう君を守る会」に参加。
1979年、岩木英二氏の上福岡市議選挙に参加、落選。
落選総括から3人で上福岡市民連合を結成。
市民連合と「守る会」の共同行動。
1980年、富士見市役所を退職。
1988年、鍼灸学校に入学。
1990年、鍼灸師として活動を始める。
1991年、レバノン医療支援を開始。
1994年、上福岡市民連合を脱退。
1997年、上福岡市議補選でブント系鈴木と岩木英二氏が分裂選挙。
10月に岩木英二氏が「脳溢血」で倒れる。
1999年、突然「クモ膜下出血」で手術。
二週間危篤状態になるも奇跡的に生還。
2000年、リハビリを続け、記憶障害は残るも日常生活に復帰。
2001年、岩木英二氏が永眠。