Voyage |
---|
色褪せる事なく蘇る
儚く美しき日々よ
眩しい海焦がれた季節も
雪の舞い降りた季節も
いつだって振り向けば
あなたがいた
***** ***** *****
2002年10月19日付朝日新聞より
「娘救う」遺志受け継ぐ
増元るみ子さんの父葬儀に横田さんら
78年に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に拉致され、「死亡」が伝えられた増元るみ子さんの父親で、17日に79歳で死去した正一さんの葬儀が19日午前、鹿児島県姶良(あいら)町で営まれた。77年に新潟で拉致された横田めぐみさんの父母、滋さん(69)と早紀江さん(66)も川崎市から参列し、正一さんを弔う読経を聞きながら、拉致事件の解決という「遺志」の継承を誓った。
滋さん「帰国の報告待って」
遺族席には正一さんの遺影と向き合うようにるみ子さんの和服姿の写真があった。父娘2人の写真には「拉致被害者全員の救出」の願いを込めた青いリボンがつけられていた。
午前9時45分、会場に着いた早紀江さんは、るみ子さんの姉の平野フミ子さん(52)に「力がなくてごめんなさい」と語りかけた。フミ子さんは「いいんです。父は精いっぱい生きました」と答えた。
滋さんは弔辞で「豪快で温かい人柄にみんなが敬服していました」と語った。鹿児島市の繁華街で一緒に署名活動を行った思い出に触れ、「大きな声で『るみ子を助けて下さい』とおっしゃっていました。こんなに早く亡くなるとは思ってもいませんでした。るみ子さんを救出し、帰国の報告ができるようにしてあげたい」と声を詰まらせた。
また、るみ子さんと一緒に拉致された市川修一さんの義姉、龍子さん(56)は「私たちは力を合わせて闘ってゆく。るみ子ちゃんを羽田空港の(飛行機の)タラップから下ろしてみせる。一緒に迎えに行こうね」と遺影に呼びかけた。
遺族を代表して、フミ子さんが語った。
「運命の(今月)15日、チャーター機の中にるみ子の姿がなかったことがとても残念でした。父は人工呼吸器をつけて話せませんでしたが、どんなに悔しかったでしょう。父の墓前に、るみ子を連れていきたい。その日まで父ちゃん、待っててね」
るみ子さんは78年8月12日、市川さんと一緒に鹿児島県吹上浜に「夕日を見に行く」と出かけたまま、行方不明になった。正一さんは1週間ほど毎日、浜辺を捜し続けた。市川さんの車やサンダルの片方が発見されたが、有力な手がかりは見つからなかった。
市川さんの兄健一さん(57)は、正一さんから電話で励まされたことが何度もあった。
「家族が集まり訴えることで政府を動かそうという切実な願いに心打たれた」と振り返る。
肺や心臓を病み、今年8月28日に入院。2日後に小泉首相の訪朝発表を聞き、「戻ってきたら、抱きしめてやりたい」と語っていた。しかし、届いた知らせは「死亡」だった。
正一さんがなくなる前日、次男の照明さん(47)=東京都中央区=は、一時帰国した5人と都内のホテルで面会した。
「どんな小さなことでもいいから、情報を父に伝えたい」。懸命に質問を重ねたが、何も知ることができなかった。
葬儀後、滋さんは「政府が本格的に早く救出活動に乗り出していれば、生前にるみ子さんに会えたかもしれない」と話した。
中山恭子内閣官房参与は葬儀後、記者団に対し「(「死亡」の知らせに)力を落とされたのでしょう。政府の当事者としてはこのことを受け止め、今後は亡くなったとされる方の対応にも重点を置きたい」と話した。