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《 総 統 雑 記 / 2002年後半 》




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2002/12/09 メロン記念日 ファーストコンサート「これが記念日」at 赤坂BLITZ
       

 いまやハロプロ一どころか日本一狂ったノリが生まれるアイドルイベント。会場一面のメロン畑など当たり前、モッシュ&ダイブで怪我人まで出かねない勢いだ。ていうかキミら、明らかに死んでも構わない気だろ?。確かにここで死ねたら「ヲタの本懐」だろうし、「LOVEマシーン伝説」とは別の神話が新たに生まれるだろうけど。


 

2002/12/02 北朝鮮に食糧支援をした日本外交協会への抗議行動に参加。
       

 専務理事が自分の同級生の総連幹部に糧食を「丸投げ」し、その幹部の電話一本で配布の確認は事足りたと主張するフザケきった「人道支援」。まさに「アウシュヴィッツのユダヤ人の惨状をダシに集めた食糧をナチス党本部に届ける如き」裏工作に、怒りの糾弾を叩きつける。
 その帰り、なんと東京タワーの下でなまゴチーンを発見。『やんパパ』の撮影だったらしく、加藤あいも居る。警備員に追い払われながら遠巻きに見学。


 

2002/11/26 中国道・中1放置死  検察側の控訴棄却 大阪高裁

「 神戸市の中国自動車道で昨年7月、中学1年の女子生徒(当時12)が放置され死亡した事件で、監禁致死などの罪に問われた元中学教諭福本謙被告(35)=兵庫県西宮市=に対する控訴審判決が26日、大阪高裁であった。白井万久裁判長は「車から被害者が飛び降りるのが予想外だったことなど酌むべき事情を十分考慮すれば、一審判決が軽すぎるとはいえない」と述べ、懲役6年とした神戸地裁判決を支持し検察側の控訴を棄却した。
 一審・神戸地裁判決は被害者の「落ち度」に触れ、懲役12年の求刑に対し半分の量刑だった。このため検察側が控訴し、「責められるべきは被告だけだ」と主張した。
 量刑について白井裁判長は「教師であるという理由で一般人より重罰に処するのは刑の均衡からみて相当ではない。責められるべきは被告だが、自ら危険に身を投じたことで被害者に多少とも落ち度はある」と述べた。」

(2002年11月27日付朝日新聞)


 ここでいう「落ち度」とは、要するに被害者が援助交際をしていたことを言っているわけで、つまりは「身体を売る」ような「汚れた女」が死ぬのは当然の報いであり、売春婦になるなら甘受すべきリスクだという宣言を、大阪高裁が公然と行ったということだ。地裁判決はこちら。 >>> 
 1987年の池袋事件から15年たった今でも、こうした「切り裂きジャック・イデオロギー」が社会の根幹を覆い尽くしていることを、この判決は如実に示している。だがそんな中でも「責められるべきは被告だけだ」と主張し原則的に闘った検察側には、軍国主義フェミニストとして敬意を表したい。


 

2002/11/11 amlに投稿。「拉致被害者に対するハギタニ氏の妄想力(笑)」


 拉致被害者の北朝鮮での監禁生活を「平穏の日々」などと宣伝する、ユダヤの陰謀論者にして拉致支援ペテン師「萩谷良」に正義の鉄槌を下す。  >>> 


 

2002/11/09 シンポジウム「日朝問題と歴史認識」に「人道介入」。東大本郷。


 金石範(キムソッポン)とかいう在日一世のジジイが登場、「国交正常化の方が重要だ。たまたま起こった拉致問題ですりかえられた」などといい調子で説教を垂れ流すので、「たまたまじゃねえだろう。国家犯罪だろうが!」とヤジる。「拉致被害者は恵まれている。植民地時代の朝鮮人はものが言えなかった」などという講釈には、「今でもそうだろうが」と突っ込んでやる。
 まともに答えられない金石範は「関東大震災では朝鮮人が六千人も殺された。日本人は歴史健忘症だ」などと昔話を得意げに並べるが、その500倍の三百万人を餓死させた金正日の大虐殺には抗議どころか一言の言及もない。最近の出来事が覚えられずに思い出話ばかり繰り返すのは、典型的な老人ボケの症状だ。
 他にも姜尚中(カンサンジュン)の「アメリカはもうナチズムだ」(ナチは北朝鮮だろうが!)、「日本人の自民族中心主義は度し難い」(ジョンイル中心主義の方が度し難いわ!)といったネゴトが羅列される(一方で一世のジジイに対するヨイショは怠りない)。
 要するに残党左翼と朝鮮右翼が、植民地支配の犠牲者をダシに使って金王朝の「国体護持」を画策する犯罪的なイベント。机を叩いて憤ってみせる姜尚中の、ヤクザ臭いパフォーマンスにウンザリ。さすがは宮崎学を友人と公言するだけはある。


 

2002/10/30 モー娘。16th Single 『ここにいるぜぇ!』を買う


 モーニング娘。がオシマイダなんて、誰が言ったんだ!。                            

娘。の底力はこの通り、逆境でこそ発揮されるのだ。
『ハロートランス』も一緒に買う。一曲目『ザ☆ピース』のアレンジが秀逸。


 

2002/09/26 浜崎あゆみ 28th Single 『Voyage』を買う


 和製マドンナとかなんとか、洋楽系との類似性を言われがちな浜崎だが、私に言わせれば最も近いのは中島みゆきである。しかも、中島が二十年かけて切り開いた地平を浜崎はわずか数年で会得して、泥海の底から人々を励まし続けている。『マイリトルシェフ』のような地道で前向きな人々の物語を彩る、この優しい曲のなんと似つかわしきことよ。

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2002/09/23 モー娘ツアー2002夏“LOVE IS ALIVE!”最終日 at 横浜アリーナ


 1.横アリの客席を埋め尽くしていた色とりどりのサイリウムが、タンポポ2ラストステージの直前、一斉に黄色に切り替わった。その一面の「タンポポ畑」は、「ハロマゲドン」以降を笑顔で通してきた飯田圭織をついに号泣させた。モーヲタ良い仕事した。

 2.コンサートが終了して会場が明るくなってからも、三十分は続いたであろう「ごっちん」コール。モーヲタ頑張った。(その轟きは後日「MUSIX!」で流れた後藤真希終了直後インタビュー中でも確認できた。)

 3.その後も会場外で「ごっちん騒乱」を繰り広げたモーヲタ人民は、ついに新横浜駅までの無届けデモを敢行した。夜の闇をサイリウムで照らしながら「ごっちん」コールを続ける隊列の美しさよ。

 モーヲタと娘達に、栄光あれ!


 

2002/08/03 『かまいたちの夜2』を買う。


 主人公カップルの名前「透と真理」を「圭と真希」に変え、やすごま話にして楽しむ。我が家なりの別れの儀式。          


 

2002/08/01 モーニング娘。怒濤の新展開(呆)。


 「一見安定して、完成したかに見える世界が常に脱退だの卒業だの増員だのレンタルだのによって脅かされる。でもそのときどきの変化や崩壊を受け止めて、いつでも前向きに頑張ろう、っていうモー娘。の在り方って、地震とサリンに攻撃された95年戦争以降の日本や、9・11のNYテロ以降の世界にも、指針を与えていると思う」などと雑誌に載せたその直後に、まさに同時多発テロ発生(泣)。

 ソロ活動だってごっちんは既にしているわけで、それなのにわざわざ「ソロにする」のは、要するに娘。からの切り離し自体が目的だって事だ。プッチもタンポポもこんなに入れ替えるなら実質的な解散である。半年以上先の卒業を今から告知されてしまう圭ちゃんも、これでは金大中並みのレイムダックだ。平家さんはハロプロからも卒業だし。

 驚くべき激動と崩壊のオンパレード。だが、それが現在の世界の正確な写し絵であり、それでも前向きに進んで行こうと苦闘し再生する彼女たちの姿こそが世界を癒し、励ますのだとすれば、僕らは彼女たちと共に、この世界に耐えて、生きていかなければならないのだろう。今までもそうして来たように。
 もちろん写し絵だから、「空爆」ぐらいは事務所も覚悟してね(笑)。



 

2002/07/19 NHK総合で放送中の米国ドラマ「ER4」で2話分が放送中止


 19日の夜、ドラマは2話分を飛ばして放送された。冒頭に30秒間、放送中止と2話分の内容を簡単に伝えるテロップが流れた。

「 中止された2話は、主な登場人物の1人である医学生が、精神に障害のある患者に刺されて死亡し、医師も重傷を負う内容。シリーズの山場であり、米国では高い視聴率を記録した。
 NHKは、中止の理由を「物語が精神障害に対する偏見を助長するおそれがあった」と説明する。だが2話とも昨年、ハイビジョンと衛星第2ですでに放送されている。NHKは「その後、精神分裂症の名称が統合失調症に変更されるなど、社会状況に動きがあった」という。」

(2002年8月2日付朝日新聞)


 要するに、精神障害者や精神病者の犯罪を、免罪し、闇に葬り、そもそも存在しなかったことにしてしまう犯罪天国日本の現状をそのまま反映したような犯罪被害の隠蔽・抹殺行為が、ドラマの世界にまで及んできたということである。
 この問題に関しては評論家・日垣隆氏の論考が重要であるので、以下の頁にその指摘を引用する。

日垣隆著『偽善系2』より 「精神障害者の犯罪率は低い」説の嘘


 このように、なかったことにされてしまうのが日本の精神障害犯罪の現状なのであり、たとえば以下のような例でも、遺族は犯人の名前すら教えてもらえないだろう。

「 東京都足立区の路上で4月、通行中の無職XXXXさん(当時44)が鉄製の棒で殴られ、殺害された事件で、東京地検は28日までに、殺人容疑で現行犯逮捕された40歳代の無職の男を不起訴処分にした。精神鑑定の結果、犯行当時の刑事責任を問えないと判断した。」

(2002年7月29日付朝日新聞から)(被害者の姓名は佐藤が伏せた)


 だが、そもそも刑事責任を負うことのできない人間に、どうして刑事上の人権を十全に保障してやらなければならないのか。もしも精神障害者だの精神病者だのが一人前に人権を主張したいのであれば、まず一人前に刑事責任を負うべきなのではないか。刑事責任は負いたくない、処罰はされたくない、だが他人を傷つけたり殺したりできる行動の自由は一人前に保障しろというのは、あまりに身勝手な主張である。
 こうした精神障害犯罪者の殺し放題やわがまま勝手が放置され続けるならば、いずれは一般の精神障害者や精神病者が、その待遇の劣悪化や囲い込みという形でそのしわ寄せを被ることになるだろう。おおよそ他人に危害を加えることのない一般の精神障害者や精神病者に対する差別や偏見を抑止するためにも、一部の精神障害犯罪者に対するまともな処罰の実行や拘禁システムの整備は急務である。



 

2002/07/17 「市井紗耶香 in C.C.」2nd single 『失恋LOVEソング』を買う


一聴してそのあまりの「軽さ」に驚く。安いラジカセで聞いているからか?。

 いや、表題作『失恋LOVEソング』もカップリング曲『ずっとね』も市井紗耶香作詩だが、まるで市井の日記をそのまま歌詞にしたような、日常そのものを描いた歌だ。そこにはカルトに絡め取られかねない自意識過剰もなければ、不平や不満に満ちた若者の変身願望もない。あるのはただ、周囲の人々と過ごす普通の日々を愛し慈しむ、健全な生活者の等身大の日々である。
 だが、そうした日常が歌われること自体は、実はそんなに普通なことではない。日常から遊離した「ファンタジー」を紡ぐのが「アーティスト」ということに一般的にはなっているわけだから、その業界規範から遠く離れた市井紗耶香の独自性はむしろ異端的だ。にもかかわらずそれをヌケヌケと押し出して疾走するきゅーびっくくろす。の安定感が、この「ぽっぴー」な軽さを作り出しているのだ。
 鬼面人を驚かす偉そうなハッタリ=「アーティスト性」をカケラも感じさせない市井紗耶香の、まるで妖精のようなステップの軽やかさ。やはり頂点を極めてしまった人は違うのか。