上福岡市は、歴史的に見ると川越から江戸への流通機関としての新河岸川の流域に発展した村であり、大正時代に東武東上線が開通するまでの旧中心街は新河岸川沿いの地域であった。また、幹線道路である川越街道には面しておらず参勤交代のための「飛び地」が辛うじて接点であり、街道沿いの宿場町として発展したのは大井村であった。
中心街からはずれた新河岸川三角州付近には、白山神社を有し「被差別部落」が存在しており、また運動的には「農民哀史」で有名な南畑小作争議や「秩父困民党」の進軍の影響もあった。そうした以前からの慣習を変革したのが東武東上線の開通と上福岡駅の開設であったが、何よりも質的にも量的にもドラスティックに上福岡を変革したのは、六○年代に建設された霞ヶ丘団地と上野台団地であった。
小さな町に大規模な団地が建設され、東京のベッドタウンとして人口が急増し、また消費者運動や自治会運動が果敢に展開され、それにともなって共産党も勢力を伸長させた。しかし、上福岡の特殊性は共産党の分裂や脱退、除名の多さである。実際、分裂した日共(左派)は、数少ない関東における拠点として日中友好協会(正統)をもって大衆運動展開をしていた。
そして六九年の秋、キリスト教会(社会党系)に通っていた当時浪人生であったAK氏やAR氏を中心に上福岡ベ平連結成の呼びかけがなされ、そこに当時高校生であった私と日中のK氏が参加したのであった。
六○年代後半の反戦闘争の激化は、10・10全国統一行動を頂点に「11月決戦」へと向かっていた。それは東上線沿線地域でも「市民集会池袋西口」や「板橋フォークゲリラ」そして「大泉市民の集い」など市民団体の都内からのうねりに連動するかのように「上福岡ベ平連」や「所沢・狭山ベ平連」そして「川越・比企反戦高校生会議」へと拡大していった。
1969年10月19日 朝霞基地闘争
11月16日 佐藤訪米阻止市民集会(日比谷野音)
上福岡ベ平連・旗揚げ結成
12月21日 文部省見解粉砕集会(川越)
主催・埼玉反戦高校生会議1970年 1月 1日 反安保元旦デモ(上福岡)
2月 〜 上福岡駅前定例集会(毎週日曜日)
(埼玉ベ平連は第三土曜日定例集会)
4月29日 反天皇上福岡集会(上福岡で初のヘルメット集会デモ)
6月7日〜 反安保一週間連日デモ(上福岡)
6月14日 反安保闘争(代々木)埼玉県内の団体が都内で統一行動
7月 5日 反安保デモ(上福岡・大井)
10月18日 埼玉入管闘結成(浦和玉蔵院)
11月 7日 埼玉西部入管闘結成(川越)7○年に入り、浪人生であった上福岡ベ平連のメンバーは大学へと各々進んだ。秋の到来と共に埼玉県内で「再編」が進行し始めた。上福岡地域に残ったメンバーは中核派系の「埼玉西部入管闘」に参加、川越反戦高校生会議は「叛乱戦線」に、比企反戦高校生会議は「東松山反戦青年委員会」へと名称変更し、新たな闘いを模索し始めた。
七○年秋の政治再編の中で、上福岡ベ平連のメンバーは分散していった。AK氏は法政大中核へ、AR氏は東北大フロントへ、T氏は東洋大第四インターへという具合であった。上福岡地域に残ったメンバーは上福岡中央公民館の「青年学級」に「アジア研究会」を建設した。中核系の西部入管闘の引き回しにも嫌気がさし、川越・東松山地区のノンセクトグループ(叛乱戦線)と共に「狭山闘争」を取り組むようになる。狭山闘争の高揚の中で運動は埼玉西部全域の高校に拡がり、それにともなって新たに「反帝共闘」が建設される。
なお、「朝霞自衛隊観閲式粉砕闘争」についての詳細は「市民じゃーなる」誌に浦和市民連合の東一邦氏が連載している。
http://www.asahi-net.or.jp/~HH2S-FJMT/jsm.htm
1971年 4月 狭山闘争の高揚(ブントは取り組んでいなかった)
6月 反帝共闘結成(狭山・入間基地闘争)
9月 地域運動の中でO氏と出合う(亀井麗子氏の選挙運動員でもあった)
11月28日 入間基地闘争(稲荷山公園)1972年 2月 6日 西部狭山差別裁判糾弾実行委結成
5月28日 入間基地反派兵闘争(稲荷山公園)
8月 相模補給廠戦車搬入阻止闘争
9月24日 埼玉狭山差別裁判糾弾共闘会議結成
10月15日 朝霞基地ホークミサイル阻止闘争
10月28日 朝霞基地ホークミサイル阻止闘争
12月10日 三里塚映画会(上福岡)司会・AK氏1973年 2月 4日 朝霞基地闘争
2月13日 岩木英二氏、共産党を「除名」
10月28日 朝霞自衛隊観閲式粉砕闘争
当時別個に進んでいた運動の流れが、上福岡市の中でだんだん目に見える形で展開されはじめた。共産党の主張でいえば「反党分子やトロツキスト」の動きである。ひとつは、上福岡市長選をめぐる岩木英二氏の「除名」と以降の三里塚闘争への関わり。また、もうひとつは狭山闘争の高揚の中で、上福岡公民館を拠点としたアジア研究会の浸透と、AK氏の上福岡市役所への就職という情況が色々な部分を巻き込んで外見的には、戦旗派と中核派の登場として表れてきた。当時、戦旗派の拠点は、川越を中心とする東上線沿線と所沢を中心とする西武線沿線の高校生と、富士見市役所と和光郵便局の職員であり、中核派の拠点は、狭山の現闘と川越の全電通職員と東上線沿線の小学校教師であった。
1974年 5月30日 三里塚空港反対同盟委員長の戸村一作氏が参院選全国区に立候補
戸村氏を支持する革新無所属の議員たちが「全国革新議員会議」を結成
7月 7日 参議院選挙
8月 狭山闘争の高揚1975年 4月27日 上福岡市議会議員選挙(岩木英二氏が最下位で当選)
4月30日 サイゴン解放1976年 2月 5日 ロッキード事件発覚
9月 9日 毛沢東死去
これ以降の歴史的経緯の詳細は「上福岡市民連合からの脱退について」を参照してください。
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