(1) 戸籍名は川添達雄。1966年生まれ。
(2) 「 須藤 丸樹(すどうまるき)33歳
1983年、武蔵高校時代から社学同に結集。東京大学卒業。85年より三里塚現地行動隊に参加、85年9・29辺田大会戦を闘い被逮捕。90年大嘗祭に抗議する「皇居ふん尿決起」で7ヶ月間拘留されるなど4度の被弾圧歴を持つ。 」
(「ブント」機関紙『SENKI』1999年9月25日号
「座談会参加者経歴」より。年齢は当時)
(3) 「人間が神になってたまるか」
「ぱるちざん戦記」(2001年4月に「ブント」が出した過去のゲリラや盗聴犯罪の自慢本)に掲載された、須藤の手記の小見出し。「皇居ふん尿決起」の際に撒いたビラのタイトルでもある。
(4) 2001年10月21日の第四次襲撃の実行犯
「10・21襲撃暴行事件」の被害を写真で公開
(5) 2003年11月初旬、「ブント有志」と共に北朝鮮を訪問。
まさに金正日が「神になって」君臨する恐怖支配の現実に直面し、手も足も出せず。
北朝鮮当局差し回しの案内員にすり寄る荒岱介らとは一線を画した態度を維持したようだが、もちろん「ふん尿決起」どころかビラ一枚まけずに虚しく帰国する。
北朝鮮における須藤の様子が窺える文章。
【北朝鮮紀行】佐久間芳雄
ブント機関誌「理戦」75号に掲載
(6) ところが「ブント」は、この金正日体制を批判するどころか体制護持に血道を上げることを公然と表明。
ブント幹部が、「拉致」は「どこの国でもあること」などとテロリストらしい居直り話で盛り上がった末に北朝鮮当局者と「固く握手」したことを明らかにした文章。「飢饉・独裁・拉致・粛清」を「共和国」への「誹譲・中傷」だと叫んで否定して来たこれまでの「ブント」の金下僕路線を見直すどころか開き直る宣言。
世界は今 北朝鮮はどうなっていたか 山根克也
『SENKI』第1128号(2003年11月25日付発行)に掲載。
須藤は「人間が神になってたまるか」という自らの主張を投げ捨てて党の方針に追従するか、さもなくば自らの戦いの意義を守るために長年所属してきた組織と対立するかの選択を迫られる。
(7) 2003年11月26日、鉄道自殺。享年37歳。
26日付東京新聞(夕刊)より。
蕨の歩道橋からJR線路飛び降り
男性死亡、3万人影響
「 二十六日午前十時二十分ごろ、埼玉県蕨市塚越四のJR宇都宮線下り線で、男性が回送電車にはねられ全身を打って死亡した。男性はJR線上に架かる歩道橋から飛び降りたとみられ、蕨署が身元の確認を急いでいる。
JR東日本によると、この事故で宇都宮線と京浜東北線、高崎線、湘南新宿ラインで計十八本が運休、三十五本に最大五十四分の遅れが出て、約三万人に影響した。」
(8) 「ブント」は、「須藤」こと川添達雄の死亡を公表せず、その後も約3年間に渡って黙殺することで隠蔽した。
だが2006年になってネット上で須藤の自殺が表面化して責任追及の声が上がると、「ブント」は「川添がパソコンに残した遺書」なるものを突如として公表した。
この「遺書」には、「自分の人生にとって、戦旗・共産同と出会えたことは、――戦旗派=荒さんといっていいと思いますが、大変すばらしいことだったと思います。」「生まれ変わりが許されるなら、今度こそ荒さんに対して何らかの恩恵を返したい。」といった異常な荒岱介賛美とともに、「この間急速にアルコールへの依存が深まった」などの記述があった。
追悼 川添達雄
『SENKI』第1229号(2006年11月15日付発行)に掲載
「ブント」はこの「遺書」を、須藤の兄も依存症だから「アルコール依存症は体質」だなどと口走る荒岱介のふざけた「追悼文」とともに掲載し、「須藤はアルコール依存症になって自殺した」という「アル中原因説」を流布した。
だが3年遅れで出された「パソコン上の遺書」なるものの信憑性は低い。荒岱介は「追悼文」の中で「彼が死を選んだときも、前夜から飲み続けて酩酊していた 」と主張しているが、「遺書」の文章が「しっかりしている」のは須藤が最後に「神秘の力を発揮した」からだ、などと述べている。
(9) しかも、ネット上でも疑問が沸騰したこの「遺書」を、「ブント」(現「アクティオ・ネットワーク」)は公式サイトの追悼記事からコッソリと削除している(2008年11月時点)。